見出し画像

理解はどうして生じるか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

「ママ、お腹すいた!」
「もうじき出来るから待ってなさい」
これはどこにでもある親子の会話である。しかし、不思議ではないか。論理的に考えれば、子供のセリフは「空腹だ」ということしか言っていない。それならなぜ、母親は子供が早く食べたがっていることを理解できるのだろう?
 言葉というものは意味がきちんと定義されていて、その定義された意味を正しく伝達することで正確に理解される。ゆえに、言葉が定義されていない場合には、まず定義づけがなされなければならない。これは一見もっともらしく聞こえる理屈である。だが、じつはおかしい。
 もし言葉が、自身の担っている情報を正確に伝えることによって意思の疎通を可能にしているのだとすれば、冒頭の会話は絶対に成立しえない。一体われわれは言葉によって何を伝達し、何を理解しているのだろうか。
 そもそもわれわれは、何をもって「わかった」と言っているのだろうか。よくよく考えてみると、「わかった」という確信以外に、わかったことを保証してくれるものは何もない。「わかったつもりになるな」と言うが、じつは、わかったつもり以外のわかり方などないのである。
 繰り返すが、コミュニケーションにおいてわれわれは、単に情報の送受信をしているわけではない。理解つまり「わかった」という確信は、そのとき置かれている状況や、お互いが共有している経験、それらを踏まえた想像力を総動員してはじめて生じる。したがって、相手の発言の間違いや矛盾をとらえていちいち反論するといった態度は、インターネットやSNS上では日常的に見かける光景だが、私は悪意しか感じない。それは、「先生、トイレ!」と言われて、「先生はトイレではありません」と言い返すのと同じである。わかることを拒否している。わかるつもりはないと言っているのである。これが悪意でなくて何であろうか。
(2023年9月加筆修正)

養老先生に貢ぐので、面白いと思ったらサポートしてください!