魔王は存在するか
𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす
今回はシューベルトの「魔王」(𝐸𝑟𝑙𝑘𝑜̈𝑛𝑖𝑔)という歌曲について書きたい。この曲の歌詩は文豪ゲーテによって書かれている。冒頭の三連音譜の連打で奏者を泣かせる有名な曲だが、今回はその音楽ではなく詩について書く。
中学校の音楽の授業で習った当時、ドイツ語の意味など知らなくとも、おおよその内容はみなさんもご存じだと思う。まず出だしはこんなふうに始まる(以下、拙訳)。
具合の悪い子供を抱いて家路を急ぐ父親。子供は何かに怯えている。
父と子の会話が始まるのだが、子供は魔王が見えるという。しかし、父親にはそれがわからない。
つまり、見間違いだと諭すのである。すると今度は魔王が子供に呼びかけてくる。
おわかりのように、子供は魔王がいると必死に言い続けているのに、父親は一貫してそれを幻想だと否定する。この親子のやりとりはきわめて象徴的である。
ヨーロッパの都市を訪れると、古い城壁が中世の面影として、いまでも残っているのを見ることができる。これはもちろん外敵から身を守るためでもあったが、同時にそれは、人間界と自然界を分ける境界線でもあった。要するに、グリム童話の世界である。一歩城壁の外に出て森の中へ迷い込めば、そこには魔女や人を襲う獣たちが跋扈していると信じられていたのである。
しかし、十七世紀には世界は様変わりする。いわゆる啓蒙の時代である。啓蒙は「蒙を啓く」と書くが、ドイツ語ではAufklärungという。これは“klar”つまり「明らか」にするという言葉からきている。英語ならEnlightmentだが、これも“light”つまり「明かり」をつけるという原義である。要するに、理性の光によって明らかにできない怪力乱心の類はこの世界に存在しないのであり、一見すると不思議で謎に満ちた自然界の出来事や現象も、科学の力によって必ず解明できるという強い信念である。
ゲーテの魔王で面白いのは、子供が魔王に連れ去られると訴えているのに対し、父親は「それは……に過ぎない」「私たちはそれが……であると知っている」と、理性的に説明できることなのだと諭すのである。つまり、魔王なんて子供じみた戯言だというわけである。さて、ところでみなさんはどう思いますか? 魔王でなくても、幽霊だとか、怪奇現象だとか、人智を超えた存在を信じますか? ここでひとつ私自身の体験談を、蛇足を承知で書かせていただきたい。
それは、あるホテルに一人で宿泊したときのことである。フロントでキーを受け取って、何階かは忘れたが部屋番号を確かめて、それでエレベーターに乗った。自分の他に乗客はなく、乗ったのは私一人だった。ボタンを押してエレベーターが上昇し、目的の階で止まった。しかし、扉が開いた瞬間私は固まった。なぜなら、目の前があまりにも暗かったからである。咄嗟に考えたのは、間違ったフロアに来てしまったのではないかということだった。たとえば、従業員用のバックヤードとか。それにしてもあまりに暗すぎる。暗くて何も見えない。仮にバックヤードだとしても、エレベーターが開いた真ん前が、こんなに真っ暗ということがあるだろうか。それに、耳を澄ますと何かガヤガヤと聞き取れない話し声のようなものが聞こえる。ここは何かがおかしい……ここは何かがおかしい! 頭の中で警報が鳴り響く。ここまで考えるのに一秒とかからなかったと思う。私は急いで閉ボタンを連打し、一階に戻った。
私は占いや迷信は基本的に信じないし、非科学的なもの、科学的に説明できないことも、何か理屈や仕掛けがあるに違いないと考えるような人間である。だがいま思うと、あのとき私は村上春樹の小説に出てくるような、「あちら側の世界」に通じる扉を開けてしまったのではないかという気がする。もしおかしな好奇心を起こしてそのまま前へ進んでいたら、小説の主人公のように、同じ世界には二度と戻ってこれなかったかもしれない。私はこの体験を、いまでもどう受け止めたらいいか、わからないでいる。ただひとつ言えるのは、いくら頭で否定しても、私が見たもの、聞いたもの、感じたもの、それらがすべて脳裏に焼き付いているということである。
養老孟司先生にお会いしたとき、きっとこの話がお好きだろうと思って聞いていただいたことがある。先生は「ファンタジーだね」とニッコリ微笑んで、「われわれは世界が理性的に理解できると考えているけれど、それは脳の中で世界をそのように組み立ているだけかもしれない。あるいは、世界の理解可能な部分しか見ていないのかもしれない」とおっしゃった。
ゲーテならどう考えただろうか。彼は一般的には近代ドイツ文学の代表的な作家とみなされている。しかし、彼はこのような詩も残しているのだ。
再び「魔王」の歌詞に戻ろう。この曲の最後は次のように終わる。
さて、みなさんはこれをどう思いますか。子供の命を奪ったのは、いったい何だっただろうか。
(二〇二〇年十二月)
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