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デザインの敗北って何?

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 「デザインの敗北」という言葉をときどき耳にする。審美的には完璧でも、致命的な欠陥を抱えたデザインに対して使われるようだ。そういうデザインがあることは私も認める。しかし、デザイナーの端くれとして言わせてもらうなら、この言い回しはちょっと気に入らない。
 「デザインの敗北」という言い方をされると、デザインそのものの存在価値を否定しているように聞こえてしまう。「この製品は見た目には美しいが、死ぬほど使いづらい。だからデザインの敗北だ」と。こう言われると、デザインよりも使いやすさの方が大事であり、デザインは機能性に敗北したのだ、と言っているよう私には聞こえる。
 だが、デザイナーなら全員同じことを言うと思うのだが、使いやすさもデザインの一部なのである。使いづらいとしたら、それはデザインが負けたからではなく、単なる失敗作なのだ。つまり、「デザインの敗北」ではなく、「デザインの失敗」と呼んでほしい。

 ロックバンドのポスターを作るときに、そのバンドの曲を一曲も聴かずにデザインするということは考えられない。ところが、これがその辺にあるベンチみたいな公共物だったりすると、利用するのはビジネスマンが多いのかお年寄りが多いのか、設置する場所は雨が多いのか海の近くなのか、そういうことまで考えて作られるケースは珍しいと思う。それらだって直接ではなくとも、デザインに関係する要素なのに。少なくとも、ロックバンドのポスターと楽曲くらいの関連性はある。
 これは、デザイナーの怠慢ばかりではない。予算や納期の都合で、そうした下調べやリサーチができないこともある。しかし、あまりお金と時間をケチると、往々にして失敗作が出来上がる。失敗作なら、何が悪かったかきちんと反省して、次はちゃんと作ればいい。デザインそれ自体が否定されるわけではない。

 そもそも、すべてのものにはデザインがある。デザインを必要としないものはない。私の持論だが、デザインとは課題を解決するためのツールである。もちろん、それだけでデザインのすべてを説明することはできない。しかし、これはデザインの重要な側面である。少なくとも、見た目の美しさよりはよっぽど重要である。
 例として、喫茶店の案内地図をデザインする場合を考えてみよう。この地図の役割は、目的地である喫茶店までたどり着けることである。どれほど芸術的だとしても、かえって道に迷ってしまうようでは良いデザインとは言えない。デザインの背後には、商品をもっと売りたいとか、お店の知名度を上げたいとか、企業のイメージを一新したいなど、いつも課題が潜んでいる。その課題はクライアントから明示されるケースもあれば、クライアント自身も気づいていないこともある。それでも、デザイナーはその課題を読み取って、それを解決するための方法を考える必要がある。

 時折、デザインの盗作疑惑が持ち上がる。これについては以前にも書いたことがあるが、客観的には盗作を証拠立てるものは何も存在しない。盗んだといわれるデザインを当のデザイナーが過去に見ていた記録が残っていたとしても、「そんな昔のことは忘れていた」と言われれば、頭の中をのぞいてみない限り本当かどうかなんてわからない。だから、政治家は「記憶にありません」という弁明で押し切ろうとする。
 それでも、疑いをかけられたデザインがどこかちぐはぐな印象を与えるのは、いちばん大きな要因としては、見てくれがいいだけで、課題の解決になっていないからであろう。私自身、他人様のデザインを見て「自分にもこんなものが作れたら」と嫉妬に駆られることはある。しかし、実際にデザインしながら考えるのは、「自分が依頼されたということは、この課題に向き合っているのは世界で自分一人であり、ゆえにこのデザインを作れるのは自分しかいない」ということである。たとえ自分がどれほど未熟だとしてもだ。
 これと同じようなデザイン論を書いているのが、佐藤卓さんの『塑する思考』(新潮社)という本である。個人的な好みで言うと、私は佐藤さんのデザインがそれほど好きではない。だが、ここまでお読みいただいておわかりのように、それはデザインの本質ではない。
 私が好きなのは、ロッテ・クールミントガムのエピソードである。人気商品のデザインをリニューアルすることは、企業にとっても重大な決断である。通い慣れたラーメン屋の味が変わることを想像してほしい。より美味しくならなければならないのは当然だが、好みの問題もある。何より常連客にとっては、「変わる」ということ自体が面白くないはずだ。デザインにも同じことが言える。どうすれば長年の支持者を納得させることができ、かつ新しいファンを獲得できるのか。それが佐藤さんに託された課題だった。それがどのようなソリューションを産んだのかは、実際にお読みになって確かめていただきたい。

 ついでに言うと、デザインにおいては、作り手の存在はまったく重要ではない。ゴミ捨て場に落ちていた、絵の具を塗りたくっただけの段ボール。誰もそんなものに見向きはしないだろう。しかし、それがジャクソン・ポロックの筆によるものだとなれば、話は別である。そんなゴミに何億もの値段がつくのはおかしいと思うかもしれない。でも、芸術作品と芸術家は切り離すことができない。
 デザインの場合は事情がまったく異なる。クールミントガムが誰のデザインかは、消費者は知る必要がない。芸術と違って、デザインは誰が作ったかは問題ではない。画家なら絵が売れないことは勲章みたいなものかもしれないが、デザイナーだったら佐藤可士和と言えども批判には耳を傾けなくてはならない。芸術品は芸術家の個性と結びついているがゆえに時代を越えて評価されるが、デザインは時代の要請に応える使命を負っている。デザインそのものが何かに敗北しなければならないとしたら、それは時間だけであろう。

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥

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