見出し画像

二月の読書:『ミステリウム』

 こんにちは。二月といえばバレンタイン。バレンタインといえばチョコレート。誰かからもらったりはしませんでしたが、それでも他の月に比べてもりもり食べていた気がします。
 さて、今月ご紹介する『ミステリウム』(エリック・マコーマック、増田まもる訳、創元ライブラリ)はちょうど去年のクリスマスにめでたく文庫化されました♡そして作中の主要な出来事はちょうど今ごろの時期(二〜三月)に起こっているのであります。今読むしかないだろ。
「歩きながら私は、その日が二月十四日の水曜日であることを思い出した。愛の日である。」

あらすじと感想

 スコットランドを思わせる(が、明記はされない)どこかの国の小さな炭鉱町キャリック。今ではめったによそ者の訪れない霧深い町に、「植民地」(アメリカ?)で水の研究に携わる水文学者のカークが現れて以降、公園の記念碑が破壊されたり図書館が荒らされるなど不穏な事件が連続し、ついには死者が出るに至る。町の薬剤師エーケンはカークの関与を疑うが、カークの死後に動物たちが大量死し、町の住民が謎の病に冒される。
 一方、最初のいくつかの事件以降、キャリックでの出来事は首都には全く伝わっておらず、疫病や災害をめぐる曖昧な噂ばかりがささやかれていた。首都で見習い新聞記者をしているマックスウェルは、キャリックの事件を捜査する知人のブレア行政官からの連絡をきっかけに、現地に足を踏み入れて関係者へのインタビューを行い、真相を探ることになり……

 物語の流れはおおよそ以上の通り。小説自体もおおむねそのままの時系列で進み、特に混乱させられるような構造ではないが、それぞれの出来事が〈マックスウェルの一人称による地の文〉〈マックスウェルの取材テープを本人が文字起こししたもの〉〈エーケンによる手記〉〈その他の文書〉のそれぞれの形で作中に現れることには注意が必要だろう。
 つまり、すべての部分を登場人物が本人にとっての現実として体験しているわけではなく、また、手記を書いたエーケンなり取材をしたマックスウェルなりの主観や意図が文章中に混じりこんでいるということだ。

 まるでミステリーにおける「信頼できない語り手」か何かみたいだが、実際この本はミステリーとしても(ギリギリ)読めると思う。ギリギリと言ったのは、結論がなんというか反則みたいな形だからで、読めると言ったのは、一応結末までに謎解きのためのすべての要素が出揃ってはいるからである。とはいえ、ミステリー要素への期待を中心に据えて読むことはあまりおすすめできない、かもしれない。
 タイトルにもなっている「ミステリウム」という言葉は、もちろんミステリーとも繋がりのある言葉。作中に、ブレア行政官による懇切丁寧な語義の講義がちゃんと付いてるぞ!

 著者のマコーマックは、父に殺された母の遺体の一部を体に埋め込まれた子供たちのその後を追う『パラダイス・モーテル』のような悪夢的な奇想が持ち味のひとつ。その点から見れば『ミステリウム』の物語は比較的マイルドで初めての人にも読みやすいと思うが、謎の毒によって病に冒されたキャリックの住民たちが見せる、言語にまつわる奇妙な症状の数々はやっぱりマコーマックならではで、奇妙さと滑稽さのバランスが絶妙。

 個人的には彼の奇想の冴えは「隠し部屋を査察して」のような短編でこそ生きると思っている。奇想のひとつひとつは鮮やかで、新しい「ネタ」が出てくるたびにワクワクさせられてしまうのだが、それが時に長編全体を構成する要素として機能していないように見えるのだ。
 一方で、長編という形式には、作品全体の雰囲気を時間をかけてコントロールできるという魅力もある。誰もが顔なじみの小さな町で不穏な出来事が連続する不気味さ、外部の人間から見たキャリックの底知れなさ、エーケンの手記を読んで十分に知った気になっていた人物たちが次々と死んでいく虚しさ、といった空気は、長編だからこそ描き出せたものだと思う。

 ジメジメして薄暗い空気の醸成に一役買っているのは、随所で言及される「奇妙なにおい」の描写だ。感じ取れる人とそうでない人のいるそれがどんなにおいなのか、何を意味するのか、なんとなく察しはつきそうだが、はっきりしたことは語られない。それがまた怪しさに拍車をかけている。そもそも小説の書き出しからしてにおいに言及していて、個人的にはその魅力的で誘いかけるような語り口に一瞬で引き込まれたことを付記しておく。

 また、キャリックは「とても辺鄙で、とても不運な場所」で「みんながみんなを知っているような町では、どんなよそ者も人目を引く」。外国からやってきたカークに対する住民たちの視線や、「南」からきたブレア行政官に対する彼らの不信感は一見、閉鎖的な土地を舞台にしたミステリーやフォークホラーを思わせる。
 しかし、これがマコーマックのもうひとつの持ち味でもあるのだが、閉鎖的で排他的な町のおどろおどろしさを強調するような書き方にはなっていないのが面白い。エーケンの手記など内部の人間の視点で書かれる部分があるためか、それともそもそものマコーマックの語り口がいつも淡々としているからか、よその人間にとって非常識で奇妙なことでもキャリックの人間にとってはごく当たり前なのだと読者にも理屈を呑み込めそうになってしまうのだ。とはいえエーケンはよそ者を監視しすぎだと思った。

生きることは本を読むことは生きること

 この小説に書かれているのはもちろん、マックスウェルがブレア行政官の協力を得てキャリック事件の真相を探る経緯だ。そのまま読んでも面白いので、上のように1,500字以上の感想を書いてしまうハメになる。
 でも、それだけじゃない読み方もできそうな手触りがある。この小説はそのまま、「本を読むこと」のメタファーでもあるような気がするのだ。手がかりになりそうなのは、第二部でマックスウェルが骨董屋のアンナ・グルーバッハのインタビューを終えた後の記述だ。

(前略)動機と原因と結果が重要ではない世界を信じていると彼女はいった。真実を見分けるのは不可能であり、解決が見出されるのは書物や演劇の中だけだと。
 私はそれを受け入れることができなかった。私自身は確実性が欲しかった。そうでなければ、どうして生きていけるだろう? それでもひとつのイメージが絶えず心の表層に浮かび上がってくるのだった——キャリックそのものがある種の劇場であり、私は半ば気づきながらさまよい込んでしまったのだ。なんらかの複雑に入り組んだ演技がまさにはじまろうとしているのか、すでにはじまっているのだ。私は観客であると同時に俳優でもあるのだ。

『ミステリウム』、創元ライブラリ、p136

「いいかね、ジェイムズ。 アンナ・グルーバッハのことは心から追い出すんだ。ひとつ理解しなければならないことがあって、それはいつでも記憶にとどめておかなければならないことなのだ。これらの人々は死んだも同然だ。いまだに話すことのできる死体と大差ない。あまり好きになりすぎず、あまり嫌いになりすぎないことだ。彼らは興味深い人格だが、 夢の中の人々ほども実体はないのだ」

同上、p137

 この「観客であると同時に俳優でもある」というのは、大昔のキャリックにおける「ミステリウムの祭り」において町の職業人が演じた役割と今のマックスウェルの状態を重ね合わせた表現だが、私たちが本を読むときの状態も似たようなものではないだろうか? 
 一方で冷静に物語の筋を追いながら、一方で今読んでいる部分で起こる出来事に夢中になり、ときに目の前の登場人物と会話しているような気分になったり、何かしてあげたいと思ったり。あるいは登場人物に共感して、自分自身と同一視する読み方もあるかもしれない。
 そう考えると、ブレア行政官とマックスウェルはそれぞれ読者の立場に相当するといえそうだ。それは熟練の読み手と初心者の二人組かもしれないし、ひとりの人物が持つ作品を批評的に眺める視点と没頭する視点の二つに分かれた読み方なのかもしれない。

 のちに、ブレア行政官がマックスウェルに自分の経歴を語りつつ、専門である犯罪理論についての講義を開陳する部分がある。文庫版の巻末に掲載されたエッセイで柴田元幸氏が指摘しているとおり、この部分は明らかにソシュールをはじめとした言語学や文芸批評の理論のパロディであり、この小説の中ではやや唐突というか「部分が全体に奉仕しない」感があるのは確かだ。
 その異様さ、「座りの悪さ」がマコーマック作品の味であるという柴田氏の意見には大いに賛同しつつも、この部分はマコーマックなりの、この小説についての不器用なヒントなのではないかという思いも、私は捨てきれない。

 また、マックスウェルがインタビューした住民たちはみな、エーケンの手記に書かれた自分のことをマックスウェルがどう思ったか気にしていて、「興味深かった」と言われて満足する。それはもちろん、エーケンの手記に書かれた彼らと実際の彼らが完全に同じものではないことを意味しており、キャリック事件の「真相」の理解にも関わる重要な記述なのだが、単純に読むと小説の登場人物が楽しんで読んでもらったことを喜んでいるようにも見えて、何だか愛おしい。

 メタファーというと言葉遊び的というか、たとえに使った表現がたとえる内容のダシにされているような感じがするかもしれない(だからたとえ話を多用する人は胡散臭いのである)。でも、『ミステリウム』において「本を読むこと」が小説の登場人物の人生をダシにしているとか、それより上位に立っているとか、そういう感じがするとは思わない。むしろ、その二つのどっちがどっちだか分からなくなってしまう地点まで行ってしまっているような、そんな奇妙で生々しい感覚がある。
 そして、まさにこうして「本を読んで」いる自分も、読みながら生きているし生きながら読んでいるし、上手くいえないけどなんかそういう感じ。

余談

 これは小ネタ的な話なのだが、マックスウェルのフルネームは「ジェイムズ・マックスウェル」。いわゆる「マクスウェルの悪魔」の物理学者と同姓同名なのである。しかし私は物理学に疎いので、何か意味があってのネーミングなのか単なる偶然なのかよくわからない。有識者の見解を求む。

 以下は、私が『ミステリウム』を読んで想起したものについて。

 私は今ポール・オースターの小説を初期のものから少しずつ読んでいる。その見かけはマコーマックの小説とは似ても似つかないものだが、作品の中に現れる物語観、あるいは現実観に関しては両者に共通するものを感じる。人間は常に自分の想像力の及ばないことが起きうる世界にいて、その全体を理解したり完璧な因果関係を見つけたりはできないこと(自分自身のことですら)。にもかかわらず、物語という形でその世界の仕組みを知ろうとせずにはいられないこと。
 でも、小説を構成するすべての言葉が小説の中で意味を持つように思えるほど研ぎ澄まされたオースターの(特に初期の)言葉と、魅力的な脱線や唐突な奇想が繰り広げられる中で結果として小説の空気が作られていくマコーマックの言葉は全然違う。同じ道を経由して全く違う目的地に向かう兄弟という感じだろうか。

 逆に見かけだけのことでいうと、キャリックの町は恐怖要素の少ないホラーという印象なのだが、その霧深さからゲームの「サイレントヒル」シリーズを想起してしまう(特に2)。サイレントヒルはアメリカの街だし、もっと規模が大きいけど、廃墟になりかけの寂しい雰囲気はちょっとだけ似ている。そしてどちらも「場」が登場人物の内面と影響し合っていそう。
 すぐ目の前も見えなくなってしまう霧という現象は、ささやかでありふれていながら不安な気持ちにもさせられるから、ホラーやミステリーをはじめとしたネガティブな気持ちを呼び起こす演出にはぴったりなのかも。
 キャリックの町をひたすら歩き回るだけのゲームがあったらいいのになあ。

 ミステリーとしてのとんでもない解決(?)という意味では麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』と並べて愛でたい。両者は別に全っ然まったく似ていないけど、作品の枠組みに自覚的な書かれ方という意味では同じかも。だいぶ本が読めるようになってきたからこっちも久しぶりに読み返してみようかな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?