映画「アメリ」考 その2

アメリに出てくる人たちは、すごく極端ではあるけれど、みんな自分の中に思い当たる節があったり、あっ!こういう人私の周りにいるあの人みたいだ!と思うことが多い。たとえば、好きな人のことが忘れられずにいたり、特に何をするわけでもなく、みんなの話を楽しそうに聞いていたり、何かに凝り固まってしまっていたり、自分に降りかかる全てのことを世間のせいにしていたり、誰にも理解されそうもない趣味があったり。これらのことを極端に描くので、主人公アメリを含め、社会的に不適合の烙印を押されてしまいそうな人たちしか出てこないと言ってもいい。どうして、この映画を作ろうと思ったのか?一言で言えるのだったら映画なんて作らないと思うから、一言では言えないと思うが、監督からの一番のメッセージとして受け取れたのは、アメリが映画の中でやっていることなんだと思う。映画の中でのアメリの行動、これが一番監督が描きたかったこと。それは、社会や世間に対して、何か引っかかってしまって前に進めなくなってしまっている人、蟠ってしまっている人、何かがトラウマになってしまっている人を、アメリがほんの少しだけ手助けしていくことで、そこで立ち止まっていた人たちが前に進めるようになっていく。アメリはそれをその人に気が付かれない形で楽しみながらやっている。それによって、本人たちは、アメリの作ってくれたほんの些細なきっかけで、昨日よりも楽しい人生を歩み始めている。でも、一人だけこの映画で違う人がいる。そう、八百屋さんの店主。彼だけはアメリにいたずらをされて、店員さんに頭が上がらなくなって終わっている。そう、アメリの周りのアメリの好きな人たちが笑顔になっていくのがこの映画の本質だ。そっしてもう一つ、そのアメリ自身も、周りの彼らと一緒で、コミュニケーション障害(と書かれることが多いが)で、周りの人たちとまともにコミュニケーションできないでいる。そんな彼女を、救ってくれるのが隣の窓から見ている絵描きのおじさん。彼はアメリによってこれまで模写しかしてこなかったが、最後に彼の画風で絵を描き始めている。彼もまたアメリによって前に進んでいるのだが、彼だけがアメリのやり方でアメリの背中を押してくれる。アメリがやったように勝手に部屋に侵入して、サプライズを仕掛ける。これによってアメリは自分の気持ちを彼に伝えられる。

 映画が始まって一時間半くらい経つと私はこの映画がどう終わるのか?が気になる。最初にアメリを観たとき、あまりに衝撃的過ぎて、分からない部分がありすぎて、あちこちにいろんな伏線がありすぎて、劇場で3回くらい観た。それから15年以上たって、もう一度見ようと思った時、ビー玉のシーンも盲目の男性の手を引いているシーンも覚えていたが、実はラストシーンを覚えていなかった。ただ、何となく読後感(って読んだわけではない)が良かったことだけを覚えていた。今回改めて見て、自分がどうして覚えていなかったが分かった気がした。最後、アメリはローマの休日のように男の子のバイクの後ろにまたがりながら、これ以上ない笑顔ではしゃいでいた。そう、普通の女の子がデートではしゃぐように。あのアメリが普通の女の子のように。人と面と向かってコミュニケーションを獲れていなかった彼女が。一番引っかかっていた彼女が、すっと前に進めていた。そう普通の女の子になっているエンディング。それは華々しいものでもなければ、ものすごく大きな目的が達成されたわけでもない、まして大悪党を倒したわけでもない。すごく些細な、でも彼女にとっては大きな一歩が踏み出されていた。 最後に、この映画で監督はすごく大胆な実験をしている。映画の表現の中ではカメラというのは存在が消されるように演出されている。たとえばカメラの目の前で、人が嘔吐する。その場合吐瀉物がカメラにかかるとレンズにかかってしまい、見ている方からすると不自然に感じられる。他にもカメラ目線というのは、その先に別の人がいて、その人を見ているカメラ目線。そこで話をするのはカメラに話しかけるのではなく、その向こうの別の人に話しかける演出なのだが、この映画では、そうではないシーンがいくつかある。アメリが独り言をカメラに向き直って言うシーン。その先には、見ているこちら側しかない。つまり直接見ている人に話しかけてくる。世界に引き込もうとするのを遮る演出。これはお芝居ですよ!という演出。これが最後にも使われている。2人の男女はバイクにまたがりながら、まるで自撮りをしているかのようにカメラ目線で笑顔を作る。ふつうならアメリがカメラをもって撮っているんですよ!って説明カットを入れるが監督は入れていない。最後までストーリーを説明するうえで必要な、でも作品のテーマに関係のない所での説明カットは挟み込まない。不親切と言えば不親切な違和感を入れてくる。でもそれでいろんなことが際立ってくる。この映画は演劇的な、英語で言うとdramaticな(劇的ではない)演出が多い。それがまた好まれた映画なんだと思うのである。映画の文法としては、どうかと思う部分もあるが、それがこの映画なんだと改めて思う。


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