アナログな言葉→デジタルな言葉

少し前のことになってしまうが、言葉で表現することと2日間に渡り、合計10時間向き合った。このワークショップに参加したのは50名。
少し時間を置いた方がこのことは振り替えられるかもと思い、
この下書きは、直後に書いたのだが、読み返し、書き直しアップしようと思う。

文章表現トレーニングのワークショップ。
真剣に5時間、言葉と向き合っては、一つの文章を書く。
これを2セットやったわけだが、
そこで紡がれた言葉は、確かに普段目にしている言葉とは違うものだった。
いや?本当に違うものなのか?普段目にしている言葉ってなんだ?

スマホカメラの功罪。

プリント機の登場
 ⇒写ルンです!の登場
  ⇒デジカメの登場
   ⇒さらにカメラ付携帯の登場
によってとどめを刺される。
シャッターを押す行為が特別なものではなく
生活の中で普通の行為になっていった。
誰もが簡単にカメラマンになった。
それどころか、見返すことなくプリントアウトされることなく
多くのしかばねのような写真データが残る時代になった。
ホワイトボードの会議記録用の写真なんて、気休めくらいだったりする。
便利になり過ぎて、その行為自体の価値が下がった。

手書きの文章はアナログ表現か?

今回2日間、紙に文章を書いた。文章を書くためにメモを取り、なんども消し直し、文章を書いた。たった数百文字の文章。みんな手書きで書いた。
いつもは画面とキーボードに向かい文章を書くが今回はアナログ。
手書きは、漢字がわからなくなったりするし、
へん と つくり を間違って、なんか見た目に違和感を感じたり、
途中で、ここの「わたし」は「ワタシ」の方がいいから、と書き直したり。

デジタルで飛ばしてきたいろんな過程が入り込んでくる。
コピー&ペースト、変換、さらに予測変換、登録単語の変換、
いろんな機能を使わずに文章を書く。
そうして書かれた文章は、デジタルでない分、
キーボードで打つ文章よりも圧倒的に情報量が多い。
どのように書きなおしたのか?うっすら消しゴムの後が残っていたり、
余白が足りなくて、急に小さな文字になっていたり、
アナログはやはりデジタルよりも情報量が多い。

トイレの落書きほどの価値

デジタルになることで、その行為の意味が低下しているのは
なにも写真だけでなく文章の世界にも起こっているんではないか?
SNSで延々と綴られていく言葉、タイムラインで流れていく言葉、
その言葉は昔よりも気軽に文章を書けるようになった分、
きっと昔よりも価値がさがったのではないか?
みんなが気軽に、絵文字やスタンプなどを駆使して簡単に紡がれる言葉。
垂れ流しにされるうわべの感情。
情報が氾濫していると言われる。検索はどんどん便利になっていく。
でも、その中で氾濫している言葉の質は確実に下がっているのでは?
インターネットなんてトイレの落書きほどの意味しかないと言っていた人がいた。そんな感覚に襲われた。

言葉と向き合うということ

今回のワークショップは手書きであった。
自分の気持ちに向きあい紡ぐ言葉。
それは、ゴシックでも明朝でもない手書きの言葉。
何を書くか?ばかりが問われ、自分のココロを開くために
用意された様々な仕掛けによってみんな心の中へ中へと
潜っていく。
そのなかで、私一人、手書きであることの意味を考えていた。
そもそも漢字は、昔、貴族の男性の言葉だった。
ひらがなは高貴な女性が使っていた。
 そこから、どんどん分け隔てなく誰もが使えるようになり
さらに誰が書いても読みやすい画面の中の文字になった。
 字が汚いとか綺麗とかで測られることのなくなった世界。
日々目にする言葉の価値がどんどん下がっていく。

一概には言えないが、昔の雑誌コラムの方が
今のウェブ記者の書くブログよりも面白かった気がする。
言葉で表現できること自体が貴重だったから、もっとその表現には
しっかりと準備をして恥ずかしい漢字の間違いがないか?チェックしながら
だからより入念な推敲を行なっていた気がする。
一部の特権階級の仕事であったからかもしれない。

だれもが発信できる時代に求められる能力。
それは手書きの文章で求められていた能力なのかも知れない
と脱線しながら感じた。



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