映画「アメリ」考 その1

久しぶりに映画「アメリ」を観た。2001年公開のフランス映画。監督はジャン=ピエール・ジュネ 主演はオドレイ・トトゥ。この映画はフランスで大ヒットして、それが入ってきた。オシャレ映画として。でも今改めて見ると非常に挑戦的で、示唆に富み、名作と呼ぶにふさわしい映画だったことに驚かされた。公開当時、一回観ただけでは理解できなかったりする部分があり、何度か劇場に足を運んだのを記憶している。

 ここから先は、いわゆるネタバレあり。です。

 まず、冒頭、いまその瞬間に起きていることが脈絡なく、語られ、その同じ瞬間にアメリが誕生したという事になっている。脈絡なく語られているが、この場合どんなエピソードを言えばいいのか?は映画のテイストを規定してしまう。アメリが生まれた時代背景の紹介だけれども、「これからこういう映画を始めますからね~」という映画としての自己紹介も兼ねている冒頭でそのような手法を取っている。そして生まれた時代背景の後に、両親の生い立ちを紹介する部分。アメリの両親の映像はほとんど出さずに、職業と嫌いなものと好きなものを挙げる。それだけで人物紹介とする。嫌いなものとその理由。好きなものとその理由。それをあげるだけで、そういう両親のもとに育ったのね。ということを端的にというか秒速で説明している。そして印象的なのがどうして二人が夫婦なのか?を同じようなことが好きということで説明しきっている。このエピソードは相当練られているんだろうなと思う。そんな人いる!って思えるものでなくてはいけないし、かといって、おれもおれも、というありふれたものでは映画にならない。そんな二人の元で生まれたアメリがどのような少女だったのか?これもエピソードの羅列で紡いでいく。『一言でいうと、こんな人』みたいなエピソードと呼ぶにも短すぎるようなシーンの連続。だけどそこに描かれていることで十分なのだ。ベリーをすべての指に挿して食べていくシーンは日本人なら「とんがりコーン」でみんなもやったであろうし、というような。少し変わっていて、と前置きしておきながら、そこに共感性が入っているエピソードをつないで進めていく。そして、そのあと母の死が描かれているのだが、そのあまりにあっさりとしすぎてる描写がすごい。「えっ?死んだんだよね、お母さん」と確認したくなるほどあっさりしている。アメリの人格を形成するうえでかなり重要な出来事であるのに。普段なら、そこが前半のクライマックスでもいいくらいだ。それくらいショッキングな死に方なのにあっさり。そこでこの少女の育った環境の特異性を示しているともいえるが。

 そして前半のクライマックスは、やはり部屋の壁の向こう側から発見された宝箱。ここで明らかにアメリの中にあるスイッチが入る。これを持ち主に届けられたらどれだけその人がよろこんでくれることか!と。自分が誰かを幸せにしてしまうかもしれない!自分がこの世の中にいる意味みたいなものを見出す。映画を見ている人は、その持ち主を探す旅がこの先のストーリーの主軸になるのでは?と思ったはずです。私もそう思いました。それくらいのドキドキ感を持ってそのくだりが始まるのに、それでさえも前半部分で探し当ててしまう。探していく過程もドラクエのようにでもありながら、でも冗長になることなく、あっさりとシーンの積み重ねで見つかってしまう。そしてその箱の渡し方の工夫がすごい。これがアメリの、アメリという映画のではなくアメリという少女の面白いところでかわいい所。はい!って手渡しせずに、なのだ。自分が表に出ることはなく、直接その人に接することなく、「誰か」としてその人の人生に関わる。そのスタンスが明確になる。そのエピソードに可愛さを覚える。そこから先はアメリのキャラが確立しているので、彼女が次々にするコトにいちいち合点がいく。その、アメリだったら、やっぱこうするよね!が映画の後半の面白さだ。 後半に続く。


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