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第6回 もしもピアノが弾けたなら

久しぶりにピアノを弾いた。数日前から続いていた胃腸の不快リズムが正常の範囲内に収まりつつあり、しかも来月に控えた確定申告の書類もろもろも完成したことで、ああ、すばらしき人生、音楽など奏でて優雅な気持ちになってしまおうかしらと考えたんだと思われる。
 
しかしながら、その作戦は華麗に失敗した。私のピアノの音色は優雅ではなかったし、今後、優雅になる日が来るかもしれないね、このまま頑張れば…という段階にも至ることなくピアノの時間にさよならするしかなかった。優雅は贅沢品であって、私ごときが享受していいような代物ではないようだ。
 
そもそも、弾く前からわかっていたことではあるのだが、家のピアノは調律が狂っている。ドの音ひとつをポーンと鳴らしただけで、ズコーとずっこけられる程度に。とはいえ、調律をしてもらうのも難しい。だって調律師さんて、作業が終わると「ちょっと弾いてみてもらえますか?」って言うんだもの。弾ける曲がない場合、どうしたらいいの。
 
加えて、10年以上のレッスンで培ったはずの私の実力は、同じく10年以上の時間をかけて大地へと還っていったらしい。自分で思っているよりも断然弾けなかった。それはもう指が動かないとかよりも全然前の次元で、例えば鍵盤のソドミを同時に叩いたときに、同じ圧にできない。ドがへちょってなって聞こえない。もはやソミ。そして調律が狂っているから、ソミでもない何かになっている。
 
いや、あるよ。あえてミを響かせたいから右手の小指だけピーンって意識して叩くとか。でもさ、それはその曲を「弾ける」段階で出てくる感覚というか、欲というか、こういう音にしたいなという感じなのであって、ソドミを弾いたつもりがソミ「のようなもの」でしたといった類のものでは決してない。
 
そりゃあ、何十年と生きてきて、その間に子どもから大人になったわけだから、できるようになったことがあるのと同時に、できなくなったこともあるのでしょう。それは当然と言えば当然の話。さらっと流されてしまっても、仕方のない話。しかし一方で、あるいは心の片隅で、できなくなったものの中に「楽器を弾くこと」が入ってしまっていたことは、どうなんだろうね、という話でもある。
 
楽器は弾けないけれども、確定申告の書類はきっちり仕上げた私と、確定申告の書類の書き方は全くわからないんだけれども、楽器は弾くよーという私は、どちらが幸せなんだろうね、という話。

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