なんなら“にょす”になりたい
ぼくは誰かと一緒にいるときに起こる沈黙の時間が怖くて仕方がない。
相手が何を考えているのか、ぼくが何か展開を作らなければならないのではないか、一緒にその場にいるのに交わっている感じがしない、交わらなければとかとか。
沈黙の訪れと同時に、ぼくの脳内は激しく活動を始める。
それは決して心地よい体験ではなく、その時間が終わると寂しい疲労感に襲われる。
ぼくの中で、その沈黙の瞬間に【何もしない】という選択ができないのだ。
友人に誘われて、とあるカフェに行った。
そのカフェでは重度の障害を抱えた方が接客ロボットのパイロットとして接客を担当してくださる。
だから店員としてその場にいなくても、自宅から接客ができたりする。
我々の接客を担当してくださった方がメニューの紹介をしてくれて、料理が到着するまで会話を提供してくださる。
そんな時、ぼくは提供してくださる会話に対して、応えなければという気持ちになってしまう。
“〜しなければ”ということばはどうしてもぼくの思考と身体を硬くさせてしまう。
硬くなるとぼくから出ることばはどこか角張って、視野も狭まり、先細った会話を予期しながら前に進んでいく。
その空回った、一方的なことばはさらなる沈黙を生むことになる。そしてぼくは焦る。
もしもひとりでそこにいたら、ずっと無理をし続けていたことだろうと思う。
友人がそこにいてくれたことで、呼吸の間を取り戻すことが出来た。
カフェを出た後も予期せぬ“動的”な時間を過ごしていた。
お気に入りのうどん屋に行き、観覧車に乗り、ジェットコースターに乗り、旅館に泊まる。
動的な時間は沈黙と遠い場所に位置している。
だからぼくにとっては楽なのだ。
旅館で迎える朝。
お風呂に入り、朝食を食べ、友人はオンライン上で打ち合わせをする。
そんな時、ふっと静的な時間が訪れる。
誰かと一緒にいるのに、各々がひとりでそこにいる。
沈黙の中で、街からは救急車の音が聴こえてくる。
ああ、誰かと一緒にいるのに喋ってなくても、心地よい。
誰かと一緒にいる中で、ぼくはひとりで呼吸をしている。友人もひとりで呼吸している。
誰かと一緒にいるということ自体がもう豊かだ。
ひとりでいたとしても、ひとりの殻に閉じこもるのではなく、いつでも何かを受容できる状態でひとりでいるという選択もできる。できた。
動的な時間の魅力をぼくはよく知っている。
だからこそ、ぼくは誰かと一緒に何もしない、そんな【にょすな時間】をもっと味わってみたい。
それに気づかせてくれた友人たちに感謝である。
なんならにょすになりたい。
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