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”ふつう”の学校ってなんだろう?

「ああいう取り組みは、うちみたいな”普通の学校”じゃできないよね。」という先生たちの言葉。
「そんな変わった学校じゃなくて、”普通の学校”に行った方がいいんじゃない?」
という親御さんの声。

このように、”ふつう”の学校という表現を聞いたことはありませんか?

私がスタッフとして働く、通信制高校のサポート校「ゼロ高等学院」でも、「普通の学校とは違う選択をしたくて…」などという言葉が生徒の口から聞こえてきます。

冒頭に出した二つの言葉のうち、前者は「普通であることがよくないこと」として捉えられていますが、後者は「普通であることがよいこと」として捉えられているように思います。

”ふつう”の学校って何なのでしょうか?
そもそも、”ふつう”の学校ってあるのでしょうか?

今回の記事では、私自身が公立小学校という、いわゆる普通の学校と捉えられがちな環境から、開校6年目のベンチャー教育機関に転職をしたことをきっかけに、”ふつう”とは何なのかについて考えたことをまとめていきたいと思います。

”ふつう”の定義を調べてみた

「普通」の意味を辞書で調べてみると、以下のように出てきました。

1. 一般的な状態や状況: 特別ではなく、普通の状態、通常の状態を指します。
2. 一般的なレベルや標準: 一般に見られる平均的なレベルや基準、普通の水準を指します。
3. 特に変わったところのないこと: 目立った特徴がなく、平凡であること。

chatGPTに「普通」って広辞苑でどう書かれているの?と聞いてみた

「当たり前」や「常識」といった言葉も、同じような意味として使われることが多いように思います。

また、学校に焦点を当てると、以下のような説明が出てきました。

普通学校(ふつうがっこう)は教育機関における名称。
日本における一般的な小学校・中学校を指す区分名称。特別支援学校と対比する際、便宜的に呼称されることが多い。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この表現はあまり使ったことがなかったのですが、公立小学校でも特別支援学級と対比する際に”一般級”と言うことはありましたね。

”ふつう”って誰がつくるの?

では、そもそも、普通って誰が決めているのでしょうか?

つい先日、ゼロ高の授業内でも「何がふつうかを決めているのはだれ?」というテーマで話し合いをしたところです。

教員時代に使っていた「てつがくおしゃべりカード」が役にたつとは

答えのない問いだからこそさまざまな意見が繰り広げられ、思っていた以上に盛り上がった話し合い。「普通を決めるのは自分自身でしょ。」と思っていた私でしたが、「周りの人々」や「環境」といった考えが次々に出され、生徒たちと一緒にモヤモヤを楽しんでいました。(ちなみに私にとって、目玉焼きには醤油でもなく、ソースでもなく、ケチャップをかけるのが”ふつう”です。)

また、少し違った角度から眺めてみると、ノーベル賞を受賞した天才物理学者であるアインシュタインは、以下の言葉を残したとされています。

人生を楽しむ秘訣は普通にこだわらないこと。 普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。 いたらお目にかかりたいものだ。

こちらは、「人生」についての言葉なのですが、もしかすると、「”ふつう”の学校なんてものも、ひとつとして存在しない」と言えるのかもしれませんね。

”ふつう”は変わりゆくものだから

“ふつう“に関することで印象的だった言葉のひとつに「普通とは時代と共に書き換わっていく」というものがあります。
これは、堀江 貴文さんの平成26年度近畿大学卒業式でのスピーチ で語られていたエピソード。一部、下記に紹介します。

今みなさんが常識だと思っていることは、20年前は常識ではなかったことが沢山あります。常識とか道徳とか倫理とかこういったものは、5年、10年単位で簡単に書き換わります。
そして、そのスピードというのは、グローバル化で加速していくことになると思います。

堀江貴文のスピーチ「情報を集めて行動せよ」@近畿大学

例えば、通信制高校やサポート校をとっても、以前より認知や理解が変化していると感じますし、データとしても通信制高校に通う生徒が圧倒的なスピードで増加していると言われています。(2018年は高校生の20人に1人の割合だったのが、2023年には12人に1人に。)

小中学校においても、オルタナティブスクールやフリースクールといった選択肢が広がりつつある時代において、”ふつう”はどんどん変わっていってますよね。

結局”ふつう”の学校 は存在する?

さて、ここまで書いてみて、正直どのように記事を着地させるか悩んでいます…笑

”ふつう”ってどんどん変わっていくものだし、アインシュタインの言葉を借りれば「”ふつう”の学校なんてない!」と言い切ることもできそうです。

そんな中、こんなnoteを発見しました。鹿児島県に「ふつうの学校」をコンセプトとした私立の小学校を建てる、という記事です。

記事の中で「”ふつう”の学校」という言葉に、次のような意味を込められているのがわかります。

わたしたちは、「ふつう」=「普(あまねく=広く) 通ること」という意味で使い、どんな地域でも特別なプレイヤーがいなくても、その地域の人々の手で 子どもにとっても先生にとっても学校を取り巻く地域の人にとっても心地よい学校を作り、その過程で 普遍性の高いエッセンスを言語化していくことを目的としたいと思っています。

第1回:「ふつうの学校」作ります。 私立新留小学校(鹿児島県)設立趣意のようなもの

記事を読み進めるにつれて、「”ふつう”の学校でありたい」という意志を持って、学校づくりをされている姿に、応援の眼差しを送りたいと思いました。

ただ、個人的には「”ふつう”の学校という表現がなくなっていく方がいいんじゃないか。」と思っています
もう少し詳しくお伝えすると、それぞれの学校によって、特色を生かした学びや学校づくりが進んでいくべきだと考えているからです。

もちろん、そうやって動かれている学校や先生方もたくさん知っていますが、個人的な経験として「近隣校もこうだから…」と、横並びを重視する言葉があるのも事実。
これは、一人の人としてもそうかもしれませんが、きっと”ふつう”であるって楽なんですよね。いろんな意味で。

こういった思いは、公立小学校からベンチャー教育機関に転職したことで、自分のなかで「生徒一人ひとりの個性を大切にしたい」という思いや、学校の特色を活かすことの重要性を感じているから生まれたのかもしれません。
誰一人として同じ子どもがいないように、学校もそれぞれの個性があっても良いのではないかと思います。

おわりに

これから、より教育の選択肢が増えていくはずです。
そのような中で10年後、いや100年後に、学校はどんな姿になっているのだろうか。もしも”ふつう”の学校と呼ばれるものがあるとしたら、どのような形なんだろうか。
そんなこともぼんやり頭に思い描きながら、過ごしていきたいと思います。

この記事を読んでくださった皆さんにとっての”ふつう”の学校とは何ですか?
ぜひ、感想やご意見をいただけると励みになります。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました!

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