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マイクル・コナリーの(Michael Conneliy)の「わが心臓の痛み(BLOOD WORK)」を読む

「わが心臓の痛み」こちらも再読です。本書は1998年の作品で日本では2002年に出版されています。1999年度のアンソニー賞と、マカヴィティ賞(国際ミステリ愛好家クラブ主催)を受賞。またクリント・イーストウッドが監督・主演で映画化もされています。コナリーの本はどれも面白い、なんといってもボッシュシリーズが中核にある訳だが、どうしたことかボッシュのお話は一つも映画化されていない。この「わが心臓の痛み」やミッキー・ハラ―が主役となっている「リンカーン弁護士」などが映画化されるというのはなぜだろう。映画化権は売れているが実現できていない感じで、ファンとしては残念で仕方がない。

ロードショウで観る映画がビデオになりDVD、サブスクになり、「ダーティー・ハリー」や「ブリッド」のような刑事ものからマーヴェル映画へと主流が移り変わってきて、製作費は考えられないぐらい莫大なものになった一方、なんだか映画は一本の映画の価値というか重さというか観る側の思い入れというものはどんどん軽薄になってきた気がします。チャドウィック・ボーズマンの遺作となった「21ブリッジ」を先日観ました。遺作になることが分かって出演していた本人の思い入れは大変なものがあったと思う。映画としてもよくできていた。面白かった。しかし申し訳ない、本当に残念なんだけど、「ダーティー・ハリー」のように繰り返し何度も観る映画にはならない。それは観ている自分自身の思い入れの問題で映画のクオリティではない。ボッシュシリーズが映画化されたとしても似たようなことになってしまう気がする。

それにしてもクリント・イーストウッドがこんな大監督になるとは夢にも思わなかった。あらためて作品群をながめると、アンドリュー・クラヴァンの「トゥルー・クライム」やデニス・ルヘインの「ミスティック・リバー」や本作のようなサスペンス映画を立て続けに出したのを最後に、イーストウッドの作品は他のジャンルにまるっとお引越しした感がある。ミステリー小説を下敷きにした映画を作るのに向かないと思ったのか、売れないと思ったのかはわかりませんが、なんとなく「わかる気」がする。

ミステリ小説の醍醐味はやはり予想外の展開、落ちにあって、それが楽しいがために本を読むわけだけど、繰り返し読むのかと言われるとそうでもない。20年ぶりに完全に忘れた状態で読んで楽しむはアリだと思うが、分かった状態で繰り返し読んでもあまり面白くはないだろう。

一方で映画の楽しみ方というものは「予想を裏切る」というのとは真逆で「お約束」の展開を楽しむという面があると思う。映画なので何回観ても同じことが繰り返されることは自明なのだけど、この局面、このシーン、このタイミングでとある出来事が起こるその瞬間を何度も繰り返して観てしまうということがある。僕ら家族にはそんなシーンについて枚挙に暇がないぐらいだ。

振り返ると「ダーティー・ハリー」に予想外な展開はあんまりなくて、犯人もわりと最初から面が割れるし、その後の追跡劇も、ラストも誰の予想も裏切らないという点では予定調和なのでした。もしかしてだから何度も観れる映画になっているのかもしれぬ。

「わが心臓の痛み」も映画の興行的には今一つだったらしい。そこには一度観たらもう十分な「予想外な展開・落ち」があったらかなのかもしれない。
小説としての面白さと映画の面白さの違いがここにあるのかもしれない。

前置きがながくなってしまいました。何が言いたいのか、つまり本書は読者の予想の遥か上を行く展開が待ち伏せている本であるということだ。若干前段が重たくなっているけれども、疑うことなく猪突猛進しましょう。

元FBIの捜査官であるテリー・マッケレイプは心臓移植手術を受け、退院はしたものの経過観察中の身だった。連続殺人が専門でポエット、コード、ゾディアック、フルムーン、ブレマーといった犯人たちのプロファイリングを行い、いくつもの事件を解決し、解決できなかった事件について遺恨を抱えていた。マッケレイプは事件捜査のストレスが原因で心筋症を患ったのだった。

そして今はFBIを引退、カブリリョ・マリーナに停泊している父親が残した船、<ザ・フォローウィング・シー>号を我が家とし船のレストアをしながら回復を待つ日々を送っていた。

そんなマッケレイプの船に突然の来訪者があった。グラシエラ・リヴァースと名乗る見知らぬ女性は、妹が殺された事件を調べてほしいと告げる。マッケレイプにはこの事件を調べる理由があるのだという。それは殺された妹の心臓がマッケレイプに移植されたからだった。

移植された心臓の持ち主のことは関係者の間でも内密になっており、マッケレイプも本来であればグラシエラも知る由のないことであったが、元FBI捜査官に対する心臓移植の話は新聞報道され、グラシエラはそのタイミングから間違いないと知ったのだった。

グラシエラの妹、グロリアは仕事帰りに立ち寄ったコンビニで起こった強盗事件に居合わせ、犯人に背後から近距離で頭部を銃撃されて亡くなった。犯人は店主も射殺し、少額の金銭を奪って現場から逃走、事件は未解決のままとなっていた。

アメリカでは新たにスリーストライク法というものが制定されていた。スリーストライク法とは三回重罪の判決を受けた場合、自動的に恩赦なしの終身刑が確定するというものだった。その法律は確かに重罪犯を拘束するという点では有効だったが、その一方で絶対に捕まりたくない連中の犯罪が過酷で無慈悲なものになってしまうという余波を生んでいた。少額の金銭を奪うために、店主も居合わせた客も射殺するというのはまさに追い詰められた男の仕業と考えられる手口であった。行きずり強盗殺人で事件後かなりの時間が経過してしまった今となっては、犯人が再犯で捕まるようなことがない限り事件の進展は期待薄だ。しかし事情が事情であることから主治医の制止に関わらずマッケレイプはグロリアの事件について調べてみると約束するのだった。

担当する刑事から犯行に使われていた拳銃はH&KP7で逃走に使われている車がジープ・チェロキーの新型であることがわかった。どちらも高額な代物で、押し込み強盗犯の持ち物としては不釣り合いなものだった。盗難品だろうか。犯行にH&KP7が使われた複数の殺人事件が発生しており、その一つは昔一緒に連続殺人犯の事件捜査にかかわったことがある保安官事務所刑事であった。昔の付き合いの伝手をつかって事件調書を手に入れたマッケレイプは注意深く調書を読んでいく。それはかつてのFBI連続殺人捜査部門において血の負債を血で贖う「ブラッド・ワーク(bloodwork)」と呼ばれた任務を踏襲するものだった。

マッケレイプはグロリアが殺される瞬間が撮影された防犯ビデオを繰り返し見ていて、彼女がその日につけていた小さな十字架のピアスが無くなっていることに気づく。犯人が戦利品として奪っていったとしたら、この事件はコンビニ強盗に見せかけてグロリアを殺すことが目的であった可能性がでてくる。しかもその手口は連続殺人犯のものだ。マッケレイプの捜査によって第二の事件が、そして不気味な犯人の影が浮かび上がってくる。

カブリリョ・マリーナはこんな場所でした。

本書は本当に何度もびっくりさせられる予想外の展開が待ち構えています。それは映画とも異なる展開となっていて、映画を観てしまった人でも楽しめる内容になっていると思います。主人公がボッシュではないという点でもサスペンスさ、スリリングさが上がっているとも思います。


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