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人生において、これだけは知っておけ(yasuの特殊解)


人生訓、あるいは、人生においてこれだけは知っておけ、的なことをかけとのご所望。

いいのかねぇ。
ヤス・ロン提督は、ズレているから参考にならないと、日頃からドーター皇女に言われているのだが。

でも、まあいいか。
yasuの人生訓、つまり一般的に通用するかどうかは分からないが、私はこれがいいと思っている人生訓を書こう(人生論の特殊解ですな。)。
これなら書けるし、読む人も特殊解だと思って読んで貰えばいい。

さて、これだけは、知っておけというものを挙げよということで考えてみた。

3つ挙げると

1 迷ったら、困難な方を選べ。
2 裏切るな。裏切るなら覚悟を決めてやれ。
3 親しき中にも礼儀あり。

もう一つ付け加えていいなら
4 不遇はチャンス。かな。

迷ったら困難な方を選べ

無謀なことをしろと言っているわけではない。
そもそも無謀なことを選択肢に入れ、それを選択するかどうか迷うようなこと自体が間違っている。

困難な方と言っても、自分では勝算を直感的に感じているはずだ。そうでなければ、ただのアホだ。

困難に思えることは、より本質的であったり、より目的や目標に直線的であることが多い。それを選択すべきだ。

また、容易に思える方に行くのは、逃げであることが多い。
対して、困難な方は、挑戦になる。
イヤイヤやるのと自分から飛び込むのでは、覚悟も勢いも違う。

逃げの姿勢で、自分の力の7〜8割しか出さずに取り組むのと、力及ばないかもしれないと、自分の力の100%あるいはそれ以上で取り組む差だ。

結果として、困難な方を選んだ方が勝率が高くなるし、成果も大きい。充実感も当然違う。


裏切るな。裏切るなら覚悟を決めてやれ。

短期的には、裏切りは利益を得るかもしれない。
だが、長期的には確実には破綻する。

裏切られたものは忘れない。
だから、二度と信用されない。
いや、一度だけならいいだろうし、その人だけだから大丈だろうと思うかもしれない。

違うのだ。
裏切りは習慣化する。
苦しい時に、楽な方法として裏切るのだ。
また、苦しい状況になったら、この楽な方法を選んでしまう。

ちょうど、雪の坂道に変な方向に轍ができるようなものだ。
最初にできた轍の上に次々と後続の車が進み、轍が深くなり、もはやそれ以外のコースを取れなくなるようなものだ。

また、裏切りは、裏切られたものも、裏切ったものを傷つける。いや、裏切った方の傷の方が致命的になる。

裏切られたものは、あのヤローと悔しむ。言ってみればそれだけ。
裏切った者は、本人が気づかない心の奥深くに傷を負う。
その傷は癒えない。

むしろ時間の経過とともに、心の奥に巣食う悪性腫瘍のように深く爛れてきて、心を壊す。自分が弱ってくる。

そんなことはない。
平気で裏切りを続けて生きている人がいるじゃないか、というかもしれない。

よく見てみるといい。
そんな人の末路はどうか。その人の家庭はどうか。
ろくなことになっていない。

もっとも、中には、裏切りや人を騙すことに喜びを感じるようなのもいないことはない。これは、いわゆる精神病質者だと思えばいい。普通のまともな日本人ではない。

これは、交通事故と同じだ。
二度と会わないように注意しよう。
こんな奴は、いずれ社会が始末してくれる。

とはいえ、特定のポジションにいて、諸般の事情でやむを得ず裏切りをせざるを得ないこともあるかもしれない。
(普通は殆どない。)

その時は、起きる結果に対しては全て引き受ける覚悟をして臨むことだ。覚悟を決めて臨んでも、傷は消えないのだが。
背負って生きるしかない。

親しき中にも礼儀あり

これは、人間関係を良好に保つ大原則だ。
親しくなって、言葉遣いや態度がフランクなったり、お互いに、いじりあったりするのはいい。

しかし、無礼はいけない。
肩苦しく接せよというのではない。
基本的な礼節は守り、決して犯してはいけない。

夫婦や恋人など特にそうだ。
つい身内感覚になり、ぞんざいな扱いをしてしまう。
赤の他人には礼節を尽くし、大事な身内はないがしろにする。

一番大事な身内こそ大切にすべきだろう。
いや、身内だからそれくらいは良いのだ。そうでないと水臭い、身内と言えない。なんて思ってるのがいる。

これは、甘えだ。
タチの悪い甘えに過ぎない。
大人になったら、支え合うのと、ないがしろにすることの違いくらいは分からないと。

それに、愛情や敬意は気持ちの問題だから、波があったりコントロールできないこともままある。
しかし、礼節を守るというのは、どんな時でも意識的にできる。そのうち、愛情や敬意の波は戻ってくる。

ついでに言うと、どんな時も礼節を忘れず接してくる相手は、いつも新鮮なものだ。
だから、日々新しく出会っているような気分になる。

不遇はチャンス

これは、心構えではない。
事実だ。構造の問題だ。

誰しも常に順風満帆というわけにはいかない。
環境も自分も変化し続けている。
適宜に対応しきれない事態が生じるのは、ある意味避けられない。

ましてや、意識的に生きようとしたら、大部分の人間にとって、ハリの穴を通すような、あるいはタイトロープを渡るようなことになる。

これが王侯貴族(表現が古いが、趣旨はわかるだろう)と違うところだ。

そんなものはない。みな平等だ、なんて思うのは勝手だ。
リアルはそうなっている。
日本だけじゃない、世界中そうだ。
人類が誕生して以来そうだと断言してもいい。

なぜ断言できるか。
自然界を見てみればいい。野生動物がいい例だ。
みんな縄張り争いをしている。
縄張り、すなわち特権だ。

ちなみに、わかった、周り中みんな敵だ、なんてアホなことを考えてはいけない。

戦えば、強い者が勝ち、弱い者が負ける。
当然だ。勝つやつを強いというのだから。

我々のほとんどは、弱いものに属する。これはしっかり認識した方がいい。だから必敗のポジションにいる。

だから、制度を変えよう、社会を改善しようと取り組むのは、良いと思うし、やり方もあると思う。

しかし、我々は、今を生きている。
社会や制度が変わるまで、待っているわけにはいなかい。

ではどうすればいい。
強くなればいい。

弱い者が結束し、助け合って臨むのだ。
これで、強いものより強くなる。
「一人はみんなのため、みんなは一人のために」というアレだ。今の所、これに太刀打ちできるものはない。

もちろん、数を頼りにしてばかりで、個々人が強くなるべく励まないようでは、話にならない。
そもそも、戦力にならないばかりか、気概がないので戦力に穴を開けることにもなりかねない。

おっと、話が逸れた。
不遇の時代の話だ。

不遇の時代というのは、わずかにあった針の穴を塞がれ、タイトロープから落ちたような状況だ。

自分の力を発揮できない。発揮する場所がない。
誰も相手にしてくれない。八方塞がりだ。
絶望という言葉を実感する時だ。

こんな時はどうするか。
まず、嘆く。身も世もなく、嘆く。
寝なくてもいい。食べなくても、飲まなくてもいい。
絶望する。そうしっかり絶望する。

ただし、3日間だけ。
それ以上は、無駄だから。
(3日間寝ないでいたらわかる。)

さて、絶望するとわかることがある。
望みは絶たれたという、その事自体だ。
つまり、もはや従来の路線は絶たれたのだ。

仲間だと思っていた人さえ、よそよそしくしてくるかもしれない。恋人も離れるかもしれない。街を歩く人が皆楽しそうに人生を送っているように見え羨ましくなる。

自分は、全て失ったと思う。

そして、気づく。
フリーだと。

そう、フリー、自由になったのだ。
誰からも相手にされないということは、誰からも要求されないということでもある。

さあ、大事に取り掛かろう。
自分が大事だと思うことに取り掛かるのだ。

組織に属していたら、その組織にとって本当はとても大事だが、皆が手を出さないでいること、不可能だと諦めているようなことを研究したり、勉強したりする。

自分個人のことなら、本当に自分が欲していること、大事なことを見据え、それを実現するために考え、行動を始める。

焦るな。
役に立つとか立たないとか、こんなことを考えていていいのだろうかとか、うまくいくとかいかないとか思い悩む必要はない。

ほとんど役立たないし、うまくいかない。
だからどうだというのだ。
他にすることなどないのだ。失うものなどない。

と、腹を括ってやっていると、その内、状況が変わって、気づくと自分が最先端にいることに気づく。
時代が自分に追いついてくる。

なぜなら、本当に大事なことは、誰にとっても大事なことだから。


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