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冷たく暗い水底に・・・

「死ぬかと思った」

というタイトルにしようかと思ったが、それでは嘘になる。死ぬとは思わなかったもの。

死ぬとは思わなかったが、あの恐怖・孤独そして無力感を、どう表現したら伝わるか考えたら表題のようになった。

ことの発端は、毎月の定期検診に先生のところに行った時だ。
診察室に入ると先生がいなく、パソコンのモニターの中に先生が写っていた。

この瞬間、あっ、来た!と思った。
何かに感染したと分かったのだ。

先生はコロナかインフルエンザに罹患し発熱しているので、直接患者さんと接触しないようにしているという。

先生は別室に居るのだし、もし診察室にウイルスがいて、それが私に侵入したとしても、そんな即座に感染するものではないくらいは、知識としては知っている。

しかし、身体が即座に反応して、くしゃみが止まらなくなった。

家に帰り着く頃には、悪寒が出てきて動きたくなくっていた。そこで事務所に連絡して、今日は休むと通告した。

それから、丸2日間、ほとんど飲まず食わずで布団に包まっていた。
とにかく動きたくない。

布団の上下とも薄手で寒い。それでも、押し入れから毛布を取り出してくる気力が湧かない。

事務所から、いくつか指示を仰ぐ電話がかかるが、その度に布団から出るのが辛い。枕元に携帯を持ってきて、連絡は携帯にしてくれと指示した。

そのうち異常を察知した所員から、大丈夫かと心配する電話が掛かってくる。脱水症状になるとまずいから、ポカリスウェットでも買ってこようかと言ってくれる。

ありがたいことなのだが、今は、電話に出て話すこと自体が苦痛だ。ありがとう、何もいらない。

病院に行かなくていいかと聞いてくれる。
心配してくれるのは、ありがたい。けど、今はこんな受け答えをするのも辛い。とにかく、ただただそっとしておいてもらいたかった。

その後は、悪寒と太ももの表面を周期的襲ってくる電撃のような痛みにひたすら耐えた。

トイレに行くのも我慢していたが限度がある。
ベッド代わりにしている空気マットレスから、床に足を下そうとしたら崩れた。

身体が軟体動物にでもなったようで、全身に力が入らず、立ち上がれない。立ち上がれないどころか、座ることも寝返りを打つこともうまくいかない。

こんな経験は初めてだった。
よく映画やドラマで、病気になった人が、ふらついて倒れたりするシーンを見ることがあるが、私はそんなことがあるものなのかと思ってた。

実際体験してみると、足に力が入らないだけじゃなくて、全くバランスが取れない。
しっかり立とうとしても、勝手に身体が倒れていってしまう。

な、なんだこれは、という感じだった。
結局、トイレには這っていくという感じ行った。
それも、バランスを崩しながら這う感じ。

さっさと病院に行けばいいと思うかもしれないが、病院に行けばなんとかなるという気が全くしなかった。

それに、コロナはもちろんインフルエンザあるいは風邪だとしても病院に行っても治らない。

ひたすら、自分の免疫力がウイルスを撃退するのを待つしかない。解熱剤など飲もうものなら、余計長引く。

絶え間なく襲ってくる悪寒と周期的くる痛みに、ただ一人でじっと耐える(ここ10日間ほど、私は独居生活をしてる)。

傷ついた、あるいは病を得た野生動物が岩陰や洞窟の中で、ひたすら動かずじっとして、傷や病が癒えるのを待つ気分がわかる気がした。

極力動かず、自分の中の資源を全て回復に回して待つ。
自力で回復するしかない。
誰も助けられないし、誰の助けも呼べない。

それに、もし助けを呼んだとしても、3階の屋根裏部屋から、降りていって玄関の鍵を開けないと誰も入ってこれない。

私は、それが面倒だし、動きたくなかったので実際、助けを呼ぶようなことはしなかった。

しかし、世の中には独居生活をしている人、あるいは余儀なくされている人が増えていると聞く。
私と同じような状況になった時に、助けを呼びたい人もいるだろう。そんな人は、かなり困難な状況に直面するのじゃなかろうか、なんて思った。

しかし、野生動物や単独行動をしていた原始人は、私がやったように、身体が自力で回復するのをじっと身を横たえて待つしかないだろう。

ということは、そもそも動物は、そうやって生きるものだともいえる。

なるほど、生まれる時は一人じゃないが、死ぬ時は一人なのだと改めて認識した。

今この記事を書いているのは、寝汗をかいて運動の後スッキリしたと同じような状態になって、身体が軽くなったからだ。

つまり、回復したようだ。







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