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25歳で「倒産寸前の会社」の社長になって半年でなんとか黒字化した話

「社長をやらせてほしい」と僕は言った。

目の前には倒産寸前の会社があった。

3ヶ月後にはキャッシュが底をつく。既存の事業はすべてうまくいっていない。おまけにちょうどパンデミックが始まったころだった。

絶体絶命と言ってよかった。ここで失敗したら僕は「戦犯」になる。

……しかし半年後。無事に会社は黒字化した。

現在の売上は、年間で億に達しているなんとか軌道に乗せることができたと思っている。

その半年間、僕が何をしたのか? どう乗り切ったのか?

大した話ではないかもしれないし、バタバタしすぎてあんまり覚えていないけれど、この経験が誰かの勇気になればと思って、語ってみたいと思う。

朝鮮学校に通った

とその前に、少しだけ生い立ちの話をさせてほしい。

僕は小中高の12年間、朝鮮学校に通った。小学校と中学校には部活が3つしかなかった。サッカー部とバスケ部と美術部。

僕らの学校は「スポーツのできるやつがエラい」という風潮が強くて、美術部に入ることはイケてないとみなされた。僕はサッカー部を選んだ。

高校では、ボクシング部に入った。

理由は強くなりたかったから。ボクシング漬けの3年間だった。朝練のあと授業中はずっと寝ていた。授業が終わったらまたボクシングをやって帰宅。夜は夜で近所のボクシングジムへ行って練習した。

毎日ボクシングのことだけ考えていた。気づけば関東大会で優勝するくらいになっていた。

僕は「カウンターパンチャー」だった。

相手の攻撃をかわして懐に入り、逆に相手を攻撃するのが「カウンターパンチャー」だ。近づいて殴る「インファイター」とか、ちょっと離れてポイントをとるタイプもいるが、僕はこのスタイルが性に合った。

大学に行く気はなかった

大学受験のタイミングでは親とさんざん揉めた。

親は大学に行けと言うが、そもそも僕は大学に行く気がなかった。「大学へ行くのに500万円かかるなら、その500万円を俺にくれ」と言ったが「それはダメだ」と叱られた。親は「とりあえず大学には行け」としつこく言うので受験はすることにした。

うちの高校は大学に行こうと思っていない人も多かった。もし行くとしてもエスカレーターで行ける「朝鮮大学」を勧められた。僕たちのあいだでは「進学するなら朝鮮大学校」というのがデフォルトだった。

ただ僕は、朝鮮大学校に行くのはイヤだった。

どうせ大学に行くのなら東京の家から遠い学校がいい。親には「独り立ちしたい」みたいな理由をつけて、大分の別府にある「立命館アジア太平洋大学」を志望校にした。

「さっさと起業してしまおう」

大学にはすごく期待していた。「勉強するぞ」と思っていた。

でもいざ大学の授業を受けてみたら、思ったより面白くなかった。いま思えば、それなりに役立つこともあったと思う。ただ当時の僕にはどうにものんびりして見えた。もっとスピード感がほしかった。

僕は子どものころから会社員になるイメージを持っていなかった。

親が会社をやっていたので起業することに怖さも感じなかった。別に会社員がイヤだったわけではないけれど「起業するほうが自然だよね」といった感覚だった。世の中にどんな仕事があるかも知らなかったけれど、根拠のない自信というか、なんでもできる気がしていた。

経営を学びたいと思って経営学部を選んだが、授業は物足りなかった。僕は「ならばさっさと起業してしまおう」と思った。

僕はプログラミングの勉強を始めた。「起業するならプログラミングを身につけるといい」と言われ始めていたからだ。本を買ってきて、ひとりパソコンをカタカタやって勉強した。

でも、それだとぜんぜん上達しなかった。僕は近くのIT企業に「ここで働かせてください!」と言って飛び込んだ。当時、別府市でインターンができるIT企業は2社しかなかった。その2社に通って仕事をやらせてもらうことにした。

実践しながらだとやっぱり身につくのは早い。インターンをやりながら「ああ、こうやってやるのか」と感覚をつかんでいった。

「2万でホームページ作ります」

何をしていたかというと、単純に「ホームページ制作」だ。

当時、別府にはホームページがない会社やお店も多かった。僕はそのへんの動物病院とかに行って「ここってホームページないですよね? 僕が作りますよ」と言って作らせてもらった。

そこから少しずつ「じゃあ次はお問合せフォームを作るか」とか「お問合せがきたら通知する機能も作ろう」という感じで、どんどんできることを増やしていった。

経験を積むことが目的だったので採算度外視で請け負った。たとえばホームページを5ページくらい作るのに普通は20万くらいかかる。でも僕は「2万円でやります」と言っていた。無料でやることもあった。

プログラミングは楽しかった。どんどんのめり込んでいった。お金も稼げることがわかった。ちゃんと仕事にしようと思うようになった。

大学は休学していたけれど、結局そのまま中退した。大学2年生になるかならないかのタイミング。19歳だった。

過去の自分が喜ぶようなサービスを作りたい

僕は起業するため、東京に戻ってきた。

僕は起業するなら「教育」に関する事業をやりたかった。

原体験は朝鮮学校での経験だ。

僕はたぶん勉強とか学ぶことは好きなんだと思う。だけど正直、朝鮮学校での勉強の体験は満足いくものじゃなかった。朝鮮学校の学習水準は、お世辞にも高いわけじゃない。というか、むしろめちゃめちゃ低い。

学校は言ってしまえば無法地帯みたいだった。

マイルドヤンキーみたいなのがイケてて、真面目だと馬鹿にされるような風潮があった。昔「GO」という朝鮮学校が舞台の映画があったけれど、まさにあんな感じ。映画ほど喧嘩はしていなかったけれど、その世界に憧れるような価値観はあった。

学ぶことは好きだけど、学校の勉強には興味を感じられない。これは朝鮮学校に限らず日本全体の教育の問題点でもあると思う。理解が早くて先に進める子がいても、全体の進行をボトムの人たちに合わせてしまうとか。そういったところに課題を感じていた。

プログラミングができるようになったとき、僕はそんな過去の自分が喜ぶようなサービスを作りたいと思った。iPadを使って家でも勉強できるサービスとか。今はそういうサービスがいっぱい世の中にあるけど、当時はとにかくそんなサービスをやれたらいいなと思っていた。

サービスを200個くらい作った

どうすれば教育を変えられるだろうか?

僕はいろんなサービスを作りながら模索していった。自分の知識をコンテンツ化して人に売ることができる教育系のサービスとか金融教育のサービスとか、本当にいろいろ作った。おそらく200個くらいは作ったと思う。

もちろんリリースしたけど何の反応もなかったもの、世に出ていないものはたくさんある。サービスの公式Twitterアカウントを開設して「始めました!」と告知したものの誰も見てない、みたいなことばかりだった。

マーケティングやサービス運営についても何もわかっていなかった。ただただ勢いにまかせて突っ走っていた。

「一緒にやらないか?」

するとある日、知り合いの松岡から「歯科の領域で事業をやりたいんだけど、一緒にやらないか?」と声がかかった。

松岡は大学の先輩の知り合いで、歯科医をやっていた。

松岡は「歯こそ人間の健康のセンターピンなんだ」と言った。僕は松岡のビジョンに惹かれ、一緒にやることにした。

もともと松岡は学生時代に「デンタビリティー」という会社を設立していた。その会社が休眠状態になっていたので、社名を変更して「ワンディー」とした。

当初、僕は業務委託として関わった。松岡の個人会社にエンジニアとして雇われるかたちだ。僕はエンジニアとしてサイトを構築した。

「歯医者さんのSNS」を作る

作ったのは、簡単に言えば「歯医者さん専用のSNS」だ。

歯科医師や歯科衛生士などの歯科医療者どうしをつなぐSNS。「歯科医療者どうしがつながって、学び会える場所を作りたい」という松岡のアイデアだった。

歯医者さんはコンビニより多い、というのは有名な話だ。コンビニが5万6,000店くらいで歯医者さんは6万8,000軒くらい。歯医者さんの世界は実は競争が激しい。儲かってると思われているけど内情は厳しい。

そもそも歯科医師たちは学習意欲が高い。でもなかなか学ぶ機会がない人も多い。そこを僕らがサポートできるんじゃないか。

僕のまわりには、エンジニアどうしでコードをレビューしあう文化がある。でも歯科医師にはそういった文化がない。独立開業すると同僚が減るため、学習機会はどうしても減ってしまう。

歯医者さんのSNSがあれば「私はこういう治療をやりました」といった情報を共有したり「こういう症例があるんですけど、どうすればいいでしょうか?」と相談できたりする。歯科医療者どうしがオンラインでサクッと学びあえれば、日本の歯医者さんの学びが促進できるだろう。

僕はサイトを構築する役回りだったが、どんどんコミットするようになり、サービスをリリースするタイミングではワンディーの役員になっていた。

すぐに会員は集まった。しかし……

2018年、歯科医療者向けSNS「1D(ワンディー)」は誕生した。

1年経たずして会員数は8,000人に到達した。すぐに日本トップクラスの歯科医療者のプラットフォームになった。幸先いいスタートだった。

ただ問題があった。マネタイズだ。

リリースからしばらくは「人が集まればどうにかなるっしょ」という感じだった。とりあえずユーザーを集めることに集中する。マネタイズはそこから考えればいい。

登録ユーザーは8,000人いたものの、マンスリーアクティブユーザー、つまり「月に何回も来てくれるユーザー」は100人とか200人とかだった。おそらく「歯医者さん向けSNS」というのが珍しくてとりあえず登録はしてくれるものの「一回見たらもういいや」という状態だったのだと思う。

数字上は8,000人登録してくれているけれど、それが生かされてはいなかった。

3,500万円の資金調達をした

僕らは資金調達をした。

2019年6月、フィード株式会社というCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)から、資本業務提携という形で3,500万円を出してもらった。そこは歯科医療者向けに卸や物販をしている会社だった。

資金調達してからは、フィード株式会社に月次報告をする必要がある。

僕らの会社は資金調達から1年以上経ってもマネタイズの目処は立っていなかった。「これ、ほんとにうまくいくの?」という空気が濃厚になってきた。

見かねたフィード株式会社から「一緒になにかやりましょう」と言われた。僕らは「やりましょう」と答えた。というかそう答えるしかなかった。次にもし資金調達するにしても「ユーザーはいます。でも売上はゼロです」じゃあマズいからだ。

その結果、生まれたサービスが「デンタルプライム」というものだった。

ざっくり言えば、毎月980円で歯科医院にマスクと手袋を届けるサービス。歯科医院でマスクと手袋はよく使う消耗品だ。それがサブスクのようなかたちで届けられるなら需要があるだろう、という読みだった。

最後の望みもなくなった

「デンタルプライム」をリリースしたのが、2020年の初め。

蓋を開けてみれば、ぜんぜんユーザーが集まらない。最悪のタイミングでパンデミックも始まった。

僕らは無料でマスクをプレゼントするキャンペーンをやった。980円を払えばマスクと手袋が無料で、かつフィード株式会社から商品を買うときの送料が全部無料になるといったサービス内容だった。

これが最後のチャンスだと思っていた。これが失敗したら終わりだ。

しかし、結果的に失敗した。

ワンディーとしては求人事業にも力を入れた。歯科医師はエンジニアと同じく売り手市場だ。とくに新卒採用はニーズが大きい。でも、これもうまくマネタイズはできなかった。

打ち出す施策がことごとくうまくいかない。創業以来ずっと赤字。みんな「終わったな」という感じだった。会社はお通夜のような雰囲気だった。

「社長をやらせてほしい」

2020年4月ーー。

日本中が未知のウイルスに右往左往していたころ、僕はある決断をした。

「僕に代表をやらせてほしい」と松岡に言ったのだ。松岡は「ああ、やってくれ」というリアクションをしたと思う。

このタイミングで社長になることは当然ながらリスクだった。会社からはどんどんキャッシュが減っていく。既存の事業はぜんぶうまくいっていない。おまけに未曾有のパンデミック。三重苦。もし僕が社長になって会社がつぶれたら「戦犯」になる。でも僕は「やらせてほしい」と言った。

火中の栗を拾う形で僕はワンディーの社長になった。

計算してみると3ヶ月後にキャッシュが底をつくことがわかった。ヤバい。どうにか生き延びる方法はないだろうか。僕は2日くらいかけてバーっといろんな事例を調べまくった。

まずは延命措置をするため、借金だ。

ただ日本政策金融公庫に借りるのは手続きが遅くてたぶん無理だろうと思った。融資してもらう前に会社がつぶれてしまう。(もしかしたらパンデミックで打撃を受けた企業として優先的に手続きしてもらえたかもしれないが、当時そんな発想はなかった。)

他に方法はないだろうか……。調べまくった結果たどり着いた施策が「エンジェル歯科医師からお金を投資してもらう」というものだった。僕は早速お金持ちの歯科医師を探してきて、1人500万円ずつ投資してもらった。

他にも資金繰りの試行錯誤はいろいろやった。チームも小さくして支出も減らした。そうやってまずはキャッシュが1年くらい持つようにした。

事業整理はドライに

次に不採算事業の整理をした。

具体的に言えば、求人関係の事業を全部やめた。

意思決定に迷いはなかった。松岡は「今の事業をどうにかする」という選択肢を考えていたかもしれない。ただ客観的に見るとこのままやってもうまくいきそうにはなかった。そのあたりは、わりとドライに「切るべきものは切る」という感覚だった。

僕が代表になったタイミングで「体制も事業もすべて変える」と言ってあった。仮に失敗したら僕が責任をとる。自分が責任をもって嫌われる覚悟でやればいい。

とはいえ、説明もなくいきなり意思決定はしなかった。

社内の摩擦を起こさないためコミュニケーションには気をつけた。「いまこういうふうに会社がマズい。だからこれをやろうと思っている。手伝ってほしい」と率直に伝えた。あまり強く「これをやるぞ」と言わないのは、僕がゆとり世代だからということもあるかもしれない。

ユーザーからお金をいただくには

まず借金をして「延命措置」をした。事業整理をして「止血」した。

次は「どうやって稼ぐか」だ。

これまで社内には「ユーザーから直接お金をいただくことは難しいんじゃないか」という仮説があった。僕はそこを疑ってみた。

もともとワンディーでは歯科医師向けの記事を多く発信していて、ユーザーはサイトに訪れてくれていた。でもそこを課金に結びつけることができていなかった。そこをなんとかすればいけるかもしれない。

「どうやったらユーザーに愛されるか? 愛された先でどうすればお金をいただけるか?」

市場調査やテストを進めていくと、ひとつ脈アリなビジネスが見つかった。それが「歯科医師向けのセミナー事業」だった。

早速セミナーを企画する歯科医師のチームを作った。そこで「歯科医師にはこういう課題があるんじゃないか?」とか「こういうことを学びたいと思っているんじゃないか?」とディスカッションした。

テーマを決めたら登壇者探しだ。抜歯の企画だったら抜歯で有名な先生やユニークなことをやっている先生を見つけてきた。

セミナーの告知をすると手応えがあった。と言っても「まったく反応がないわけじゃない」というレベル。なにせこれまでの事業の収益は、ほぼゼロだ。それに比べれば「これはちょっといけるかも」と思えた。

セミナー事業と一口に言っても企画の立て方は難しい。

ニッチがいいのだけれどニッチすぎるとダメ。たとえば最近出てきた「インビザライン」という矯正方法がある。「アライナー」という透明のマウスピースをつけて矯正するものだ。そういうトレンドのものはウケがよかった。でもそれよりもマニアックになると受講者は一気に減った。

僕らは毎回PDCAを回して精度を高めていった。

黒字化、そして業界ナンバーワンに

セミナーが少しずつ軌道に乗り始め、集客がうまくいき始めた。ワンディーのユーザーも増えていった。

ユーザーが増えるとさらにいいことがあった。それはユーザーのデータをもとに広告を出せるようになったことだ。広告主は、歯科医院向けに新しいドリルやレントゲンを売りたいメーカーや不動産・金融関係の会社だ。

僕らは広告事業をグロースさせるため営業チームを立ち上げた。セミナーに加えて広告でもマネタイズできるようになったのは大きかった。

ワンディーは黒字化した。

僕が社長になって半年が経っていた。

現在の売上は年間で数億。ワンディーに登録しているユーザーも、歯科医師の数も業界最大規模の数字だ。伸び率も僕らが圧倒的にナンバーワン。

まだ大成功しているわけじゃないが、なんとか軌道に乗せることができたと思っている。

ここまで僕の手柄のように語ってしまったが、僕だけではうまくいかなかっただろう。任せてくれた松岡やここまで一緒に走ってくれたチームのみんなのおかげだ。

僕が社長を引き受けた理由

なぜ、あのとき僕は「社長をやらせてくれ」と言ったのか? ひとことで言うなら「目の前に大変なチームがあったから」だ。

僕が社長になったとき、会社には業務委託も含めれば20人くらいいた。どの事業もうまくいっていなかったのでチームに勢いはなかった。伸びないサービスに携わってもらっていることに対して、僕は申し訳ない気持ちだった。

だから「まず目の前のこの状況を解決しなければ」という気持ちがいちばん先に来た。僕にとってそう感じるのは自然だった。

別の会社を立ち上げる選択肢もあった。できる自信もあった。でも仮にワンディーのみんなを置いて、新しくスタートアップを立ち上げたとして、その選択は正しいのだろうか。

僕は、経営の目的は「会社を成長させて、業界や世の中によいインパクトを与えること」「事業を通じて、世の中を幸せにすること」だと思っている。だから、目の前のチームやその先にいるユーザーたちの幸せを捨てておきながら、新しい会社を作って「世の中を幸せにしたい」と言うのって、なんかすげえダサいし矛盾してるなと思った。

カッコつけているように聞こえるかもしれないけれど、ここで社長にならないことは直感的にダメな気がした。

人生のカウンターパンチャーになれ

次、僕らはグローバルを狙いに行く。

世界のなかでも日本の歯科のレベルはドイツやアメリカと並んで高いと言われている。ベトナムや中国の歯科医師が日本に学びに来ていたりもする。

だから今後はアジアにいる歯科医師に向けて学習コンテンツを提供できるんじゃないか、と思っている。まだ詳しくは語れないけれど、いまその戦略を描いているところだ。

僕らは世界を本気で狙う。

今後も大変なことはいろいろ起きると思う。その大変さはこれまでの比じゃないくらい大きなものかもしれない。ただ僕はどんなことがあっても乗り越えられると思っている。

もう亡くなってしまったけれど高校のボクシング部の恩師が口癖のように言っていたセリフがある。それが「人生のカウンターパンチャーになれ」というものだった。

パンチが飛んできたとき、たいていの人間はガードするか後ろに下がる。でもカウンターパンチャーは前に出る。必要なのは勇気と度胸。僕はこれからも繰り出されるパンチをかわしながら懐に飛び込んでいくだろう。そして、決死のカウンターパンチを浴びせるだろう。

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