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永遠は雲のまにまに

昨晩、映画「天気の子」を番組録画で観ました。年始から観るのを忘れていました。印象に残ったのは、

これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください

この台詞です。
これは永遠を願っているのではないでしょうか。

ただ2019年7月に公開された映画というのを考えると、2020年コロナ禍を境に、この台詞の解釈も変わってしまいますね。


大切な人ができて、変わらないことを望む。それは、世界がウィルスで閉ざされようが、東京が水で浸されようが、一瞬にして永遠を願ってしまうことでしょう。

だけど、最後の方のシーンで、その後ふたりが3年間会わなかったことがわかります。3年間って長いですね。それまでの、語りようのない不思議な出来事と、現実社会で起きた事件扱いの案件が、それぞれに解決収束するのにかかった時間。そして、一瞬にして変わっていくもののなかで、変わらないものを掬い上げるために要した時間。つまり、一瞬を永遠にするための3年間。

世の中全体を「晴れ」にしなくても、主人公の人生を「晴れ」にする意味では、彼にとって彼女は永遠に「天気の子」なんだと思いました。それを宣言するような映画。そういう人と出会えたら、そのこと自体は自ら変えられないかもしれませんね。せめてスノードームに封印したくなります。

ちょっと話は変わるのですが、「ヒーロー」がいる物語というのがあります。仮面ライダーとかウルトラマンとかガンダムとか。なんでも桃太郎でも。そういう「英雄」というのは、言ってしまえば「人柱」の一種です。「個」を滅し「公」化した人。プライベートな顔が見えない社会正義のために闘う人。

かつては、龍神に納めるといった「人柱」は村コミュニティーの和平を守るための犠牲だったのでしょうが、何も受動的であったばかりではないと聞きます。洗脳とまでは言わないにしても、その時の空気に促されて能動的に意思決定し犠牲を厭わない一人が、全体を救うと信じていた時代があったと思うのです。

主人公の帆高は、ヒーローだけど、そういった昔のヒーロー像とは異なります。陽菜たちのヒーローであって、社会正義のために闘ったわけではないのです。陽菜も、人柱になりかけたけれど翻って蘇生されます。それらを肯定的に描いた作品だったと思うのです。

この映画から個が公を通さずに、天に直接つながる一つの形をイメージして、これは、いい加減では難しそうだと思いました。つながる相手の力が強すぎて、生半可では木っ端微塵になりそう。そこへ突っ込んでいく勇気と、それだけでなく自分への誠実さ、細々でもピュアな強さ、まずは自分を誤魔化していないことが最初の一歩だなと思いました。そして、ヒーローは悪と闘うのではなく、社会がつくった固定観念と闘っています。固定観念は悪とは限らないけれど、進みたい時の障壁にはなりますからね。感想です。


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