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脳内トレーニング
身辺がいろいろと一区切りしたところなので気分転換をすることにしました。下手な考え休むに似たり、でしたっけ。
それで気分転換に自宅で映画を観ました。
いつぶりだろう? 去年の春も観ていないんです。あの、自粛が厳しかった期間でさえ観なかった映画。それを観る気になった自分の心境の変化はいかばかりかと、ちょっと動揺しました。映画の内容はまた別記事にしようと思います。何か心境が変わったんだなと実感しました。
一つ思い当たるのは、自分を捉え直したことでしょうか。
8歳くらいまでの子供時代に自然とできていたこと
それを思い出せば、これからを生きるヒントになると聞いて以来、それならばと努力して思い出しても、あまりピンとこなかったんですね。家族に聞いたり、同級生に聞いたりしました。自分が思い出すのは、同じこと。それじゃないしなと思っていました。でも、それだったんだと改めて捉え直したのです。
それとは何かというと。
8歳くらいまでの私は、とにかく体を動かしていました。のちに親が「この娘はオリンピックにでも出るつもりか」と勘繰るくらいに、黙々と、自分でもわからないままに。特に誰からも求められていないのに身体能力を伸ばすことに集中していました。運動神経は発達していた方でした。たとえば、校庭にある鉄棒で逆上がりのみならず、高鉄棒で懸垂とか、グライダーみたいに弾みをつけて飛んだり。新体操の技みたいなことを延々と繰り返していた時期もあります。何かよくわからないけれど、極める人として黙々とやってました。
当時、住んでいた家の周りは男兄弟の群れだらけで、彼らと遊ぶことが多かったのです。球技も、ゲーム性のあるものも全て、おもちゃを必要とするようなものではなくて体全身で競って遊び倒していました。走り込んだり、高いところから飛び降りたり、逃げ回ったりです。
彼らと連むときは、おしゃべりの種類が女子同士とはまったく違ったのを覚えています。そんなに話さなくても良くて、子供だったからなのか井戸端会議で噂話みたいなことはほぼなかったような気がします。とにかく汗まみれの泥だらけでした。
その後、8歳を過ぎてから大人に向かっていくなか、急に様子が変わっていくのです。ジェットコースターに乗るのはNG。スキーもスピードが出せない。車の運転も怖い。スピード感を楽しむという機能がすっぽり抜け落ちます。
それで、あーもしかしたらと気づいたのは、それまで体感していた感覚の入口が「身体」から「脳」へ移ったのではないか。別の言い方をすると、体で実感していた風を、脳で浴びるようになったということ。
そうやって身体能力をあげることで培った感覚がホームを「脳」にうつしたことで、体を動かしたい汗をかきたい欲求を満足させる行動は勉強や仕事の場面で消化していった気がします。バタバタでもギリギリでも瞬発力で対応するとか、根気良く筋肉を鍛えたり柔軟性を上げるように下積み仕事をするとか。そういう鍛錬を脳内でしていたのかもしれないです。
それも、人の死によって自分の老いを意識するようになったことで様相が変わってきたのかもしれないです。
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