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眼は口ほどにものをいう自分をのぞく穴

講師を長年していた時に、不特定多数の前でとにかくやっていたのは、しゃべることです。あるテーマと、そのモチーフが決まっていて、それについて淀みなくずっと一人で60〜120分前後はなしつづける仕事です。当初から台本はあるようでないのです。

それなのに、聴衆者に言われがちだったのは「顔芸」がすごい、でした。そこに引き込まれるそうです。それって話の内容が頭に入らないということじゃないの?と思うと、微妙な気持ちになりますね。喋る顔が汚い動きをするから「芸」なんでしょうね、美しいとは言われませんでした。反対に、しゃべらない方がいいのにと言われたことはありますから間違いないと思います。仕事ですからね、気取っていなかったのでしょう。

先日、夜明けまで話し込んだ女子会で「眼力」というか、眼の表情につられると言われて、その当時のことを思い出した次第です。また私は、顔の造作を崩すほどの勢いで話していたのでしょうか。

お酒も飲まずに?真夜中に?
眠かったんですけれど。

少し話はズレます。
先日読んだ漫画に「魚の死んだ目」の主人公が登場していました。彼は零細な経営者。クールで冷めているけれど腕は確かなコミュ障。その目に生気が宿る時がくるのですが、それは経営が立て直されたあたりからです。

私は鏡を見て、「魚の死んだ目」になっているのを自覚した時期があります。「魚」まで戻っていないけれど「人」殻に埋まっているはずの「気」がなかったと思います。それで思ったのは、誰にも期待されないとこうなるんじゃダメだなと。反対に、自分勝手にギラギラしている人の強さと危うさについて。そういうことを、モヤモヤと考え、どっちつかずでした。

その漫画の「魚の死んだ目」の主人公に話を戻すと、彼は、望まないパートナーを抱え込むことがきっかけで、経営が軌道にのり眼が復活していきます。

そのパートナーは、側から見ると「福の神」です。なのに、主人公にとっては厄介払いしたい相手。1人で上手くいかなくて、偶然だれかが転がり込んで空気が変わっているのに、また元の零細に戻ろうとする。その無自覚さに、リアリティがあるなと思いました。つまり、「福の神」は福の神然としてはやってこないのだろうということです。ずっと「福の神」だと認識されないままだから、万が一、手放されたりもするかもしれない。自分がコントロールできる範囲なんてたかが知れていると思うわけです。

ならば、うまく行っているかどうかなんて、眼に生気が宿っているかどうか、ぐらいでしかわからないんじゃないか。だから、かつて顔芸で人の眼を惹きつけられていたのなら、それはそれで良かったのではないか。逆に、魚の目をしていた時期はヤバかったのではないか。今、誰かが眼の表情につられるというなら悪くないのかもしれない。そんな感じで、自己チェックで眼の表情を人生の浮き沈みのバロメーターにしてもいいかもしれませんね。

それで、よく鏡を見るようになりました。ナルシストかっというくらいに、よくみています。外からのチェック大事です。


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