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平らに見るということ


自分のことを話す時に、「なんだかんだ流されやすい人」という言葉を使う。
これは割と僕をよく知ってる人からは共感を受けるのだけど、最近わりと近しい人に「そうやってよく言うけど、実は誰よりも冷静ですよ」と言われた。
普通に言われたこと自体は嬉しかったんだけど、なぜそう思われたのだろうとか色々考えていて、最近思ったこと。

多分僕は、それなりに流されやすいのだけど、ギリギリの所で自分の感覚でしか生きてない。
判断とか考えなんてものじゃなくて、感覚でしか生きていない。

そして、その感覚で僕が動くタイミングって、「これ以上自分を曲げると歪むな」というタイミングなんだろうな、と思う。
タイミングが訪れるのは積み重ねの結果なんだけど、降りる時はいつだって突然におりてくる。
そして考えるまでもなく、僕はそれを信じる。
そんな生き方をしている。

ここで発散しとかないと、自分が好きな自分がいなくなる、という所で動いてるんだと思う。

結局、全員そういうもんじゃん?と思っていて。
飲み込める人は凄いと思う。発散までのタイミングが長い人はほんとに尊敬する。
でもなんか、飲み込まなきゃいけないだけを思い続けてる人達って、自分でも気づかない間にどんどん自分を失い続けている。
それは遅効性の毒みたいなもので、回ってることに気づかないくらいの症状で、でも確実に少しずつ自分を作り変えていってしまう。
耐えられる人ほど気づけないのが辛いなあと思うのだけど。

多分外側から見たときに、僕は間違っていたり、頭が悪く見られたりするんだろうなと思う。
確かに実際自分でもそう思ったりする時もあるんだけど、でもやっぱり、誰にも気づかれなくても僕が守んなきゃいけないのはそっちの方だよなと思ってしまう。
からそういう意味では、後悔していない、というよりどうしても後悔できないのだ。その結果失わずにすんでいるものがどうしてもあるのだ。

偉そうにいうわけじゃなくて、やっぱり間違った時も自分の中にある。歪んじゃった時。
大体が何かに疲れていてちゃんと物事を考えていない時だ。
そういう時のこと、多分周りは全然覚えてない、というかわかってないくらいだと思うんだけど、僕の中にはずっと残っている。
今でも夢に出てくるのはどっちかというとそういうことだ。
傷つける方は覚えてなくて、傷つけられた方は一生忘れないという話は当然理解もしてるのだけど、僕が一生忘れないのはどちらかというと自分が誰かを傷つけた記憶の方だ。
傷つけられたことは結構大体笑えるようになっている。
多分これももっと掘り下げると優しいとはまた違う感覚の話で、僕が間違って誰かにその間違いを押し付けたことが自分で許せないんだろうなと思う。

誰にも気づかれなくても、なんて言ったけどほんとはちょっと気づかれたいと思っていて。
冷静と言ってくれた友人は、こんなことを感覚的に理解してくれてるんだろうなと、なんだか嬉しくなりました。

 


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