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「かけがえのない他人同士」とは、「ホットケーキを食べたりおてがみを送ったりするような普遍的なことをしていても世界がきらめいて見えるような、他の人では代替不可能な関係のこと」であると言う。

文學界10月号「属性」との付き合い方――『N/A』論 より
中村香住さんが書いた、年森瑛さん著『N/A』についてのコラム・エッセイである。


実はnoteにも同じ内容の記事がある。


記事を見つけたときは嬉しくなった。未だこんな説明に出会ったことがない。
お気に入りの点が3つある。


①ドーナツの穴が「見える」

どのようなことでも、属性の枠組みから外れると、途端にそこでの関係性や感情には名前やラベルがつかなくなる。その見えなくなったものにくっきりと形を与えたのが『N/A』(まだ読んでないけど)、そしてクワロマンティックという概念なんだと思った。

単純に言ってしまえば、クワロマンティックな人々は、ロマンティックな人々の間に「ある」とされるものが「ない」、あるいは「ラベリングしない」ということを選択している人々だと理解している。ドーナツの穴のように、「ない」ものを取り出して操作することはとても難しいはずなのに、この記事を読むと「ない」はずだったものがちゃんと目に見えてきて、その温度さえも感じてしまうから不思議だ。


②「他人/他者」(そして「自分」)へのまなざし

(抜粋)クワロマンティック実践の中で、恋愛か友情かなどの関係性のラベルを付けずにただ人として大切にしている相手のことを、中村は前述の論考で便宜上「重要な他者」と呼んでいる。このように整理してみると、まどかの「かけがえのない他人」概念は、クワロマンティック的な「重要な他者」概念とかなり近しいものに思える。

https://books.bunshun.jp/articles/-/7445

この記事では、「他人/他者」という言葉の新たな一面を感じられる。

一般的に家族とか友だちとかあるいは恋人とかの親しい間柄の人を、「他人/他者」という言葉を使って表現しようとすると、それを言われた相手は残念な気持ちになることが多いようである。つまり「他人/他者」という言葉は、相手との間に見えない線を引くようなニュアンスも含むらしく、人によってはややネガティブにも受け取られる表現だ。

けれどもこの記事においての「他人/他者」は、むしろ文脈によっては自分や相手を尊重し、大切に扱うための言葉として使われている。
(これは逆説的に言えば、「他人/他者」を新たに定義づけることで、彼らから見える「自分自身」をもまた新たに定義しようとしているということか。その点も非常に面白い。)

そしてその「他人/他者」同士の関係を、他のそれと同じように大切なものの一つとして尊重するまなざしがそこにある気がするのだ。


③属性へのこだわり

(抜粋)このような「かけがえのない他人」とは、つまり、何かしらの「属性の枠組み」から自由な人間関係のことである。「まどかのことを、ただのまどかとして見てくれて、まどかへの言葉をくれる他人がほしかった」と言うように、まどかは自分のことを何かしらのカテゴリーや枠組みに当てはめて見られることを嫌い、「属性」から自由な関係性を求めていた。

https://books.bunshun.jp/articles/-/7445

これはもう共感できるとしか言いようがない。当事者不在で自分自身が語られることはとても恐ろしいことだし、そこで勘違いされることはとても怖いことだ。

でも記事にも書かれているとおり、「属性」を嫌うのは、むしろ「属性」にこだわっているからこそという点も非常に共感できた。

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年森瑛
N/A


現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在

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