マハ・フセイニが訴えた日本人への遺言 ー パレスチナ・沖縄・いじめ..自己責任の三位一体
ガザの戦争が始まって7日が経った。現時点(14日朝)で未だイスラエル軍の地上侵攻は始まっていない。過去最大のガザ空爆によってガザの死者数は1900人となり(うち614人が子ども)、国連職員も12人が犠牲となった。13日のTBS報道特集では、ガザで人道支援活動を続けている日本人女性の生の声が放送された。「ガザは今地獄です。逃げる場所もないのに逃げろと言われて、逃げろと言われても空爆は止まらなくて。一般市民はどこにも行く場所がありません。イスラエルは攻撃対象にならないはずの救急車や病院すら攻撃しようとしています。私たちもどこに行くか分からないし、安全な場所なんてどこにもないです」。ネットに載っているが、テキストを読むのではなく、肉声の日本語を直に聞いていただきたい。
11日夜の報道1930で、ガザ在住のパレスチナ人女性(マハ・フセイニ)が登場し、今回の事態は予期していたことだと言い、イスラエルの残虐な蛮行とそれを見逃したままの国際社会を批判した。知的で冷静な言葉だった。パレスチナ人は伝統的に知性と教育の水準が高い人々だ。サイードを出した民族だ。放送映像の字幕を転載する。
長々と転載したのは理由があり、これが彼女の最後の言葉となり、われわれ日本人に向けての遺言となる可能性が高いと思われるからだ。松原耕二が注釈を付けたように、西側メディアがガザの現状について証言を聞くべく住民にインタビューを申し込んでも、イスラエル軍に命を狙われる危険性が高いため簡単には応じてもらえない。これが嘘や誇張ではないことを、われわれは2014年の田中龍作の現地レポで知っている。イスラエル軍は、ガザ地上のどこに誰がいるという情報を実に精確・緻密に掌握していて、田中龍作も旋回するイスラエル軍ヘリに実際に脅されていた。ガザの中にはイスラエルのスパイが無数に放たれていて、街の中の様子や市民の動きを刻々と監視・通報している。今回のマハ・フセイニのTBSインタビューは、まさに命と引き換えの勇気ある最後の抵抗行動だったと私は想像する。
重信メイのパイプとコンタクトがあったから、フセイニは顔を出しての出演を決断したのだろう。自分の言葉が日本人に届くことを信じて。胸が痛い。08-09年のガザ侵攻では1330人が殺されている。侵攻と虐殺を見ないフリすべく、オバマは年末休暇のハワイでゴルフをしていた。世界中から期待を集めて大統領に当選した直後の出来事で、私はその衝撃と憤怒をブログに書いた。2014年のガザ侵攻では2143人が殺された。今回は未だ地上侵攻が始まってないのに、空爆だけで1900人も殺されている。ほとんど民間人だろうし、子どもも何百人も虐殺されている。08-09年のガザ侵攻は堪えられない心の傷みだった。あれから15年。日本と西側は年を追うほどにパレスチナに対して冷淡になり、取材と報告をやめ、イスラエルの狡猾な嗜虐と殺戮に顔を背けることで心の傷みを覚えないようにしてきた。
重信メイは報道1930のコメントの冒頭で、パレスチナの今回の抵抗は日本の学校のいじめの問題と同じだと言った。前回の記事で私が指摘した内容と同じであり、本質を射抜いた見方だと思われる。
そして私見では、この二つの現象と進行は偶然ではない。世界の(特に西側の)思想というか、思潮というか、価値観・イデオロギーの問題と関係している。日本の学校でのいじめは、なくなるどころか、減るどころか、どんどん増えている。弱い境遇で標的にされた子どもは地獄の日々を強いられ、自殺死という「自己責任」の末路に追い詰められる。学校に通うことは、まさに命の危険と隣り合わせだ。だが、誰も弱者の子どもを守ろうとしない。嘗ては中学生が多かったが、今では小学生にまで禍と脅威が下がり、また、会社で大人のいじめ(パワハラ・暴行傷害)も深刻化している。人権という日本語が以前は持っていた、一般的正義の常識と普遍的保障力が日常から消えた。人権は、今や特殊な、ジェンダーとかマイノリティとかLGBTとかの現場でのみ主張され通用する、対象者が絞られた制度と用語になっている。
パレスチナの問題は日本のいじめと同じだ。そしてそれは、大多数が親米新自由主義の思想に改宗した事実を意味する。弱者をいじめて傷つける側の主体に変容した真相を意味する。大多数が「自己責任」の思想に与し、弱者いじめを、今の時代の仕方のない付随悪だとして肯定し、「自己責任」の論理で正当化している。いじめられる側(例えばパレスチナ)の瑕疵を穿り出して論い、いじめる側に加担して平然と傍観している。今の40代以下の日本人が10代の頃に学校の教室でやってきたことと同じだ。今の国連は学級の教師や校長と同じである。見て見ぬフリを決め込み、イスラエルの国際法無視の暴力を容認し、一方的に虐待されるパレスチナの側に責任があるが如く「どっちもどっち」論を言っている。同じなのだ。教育基本法や教育倫理が崩壊した日本の学校と、今の国際社会は同じなのだ。
前回の記事で、パレスチナの問題は学校のいじめと同じだと言った。もう一つ言いたい。パレスチナの問題は、日本の沖縄の問題と同じである。日本のマスコミが、パレスチナに内在し、現地レポートを伝え、ガザ支援の必要性を説き、イスラエルの非道性を告発していた健全な頃、日本のテレビは辺野古の米軍基地建設に反対の姿勢が顕著だった。久米宏のニュースステーションも、筑紫哲也のNEWS23も、辺野古沖に櫓を立てて抗議する反対派に寄り添った報道をしていた。沖縄の反基地抵抗運動が日本の政治的正統だった。だが、民主党政権が倒れて安倍政権(菅官房長官)となって変容し、特に2016年を境にして、米国と日本政府は沖縄に対して何をしても合法となり、非道も理不尽も憲法違反もすべて咎められなくなった。裁判もデモも無力になり、マスコミ報道はすっかり変わった。
同じなのだ。パレスチナ問題にとっての国連と国際社会。沖縄基地問題における日本政府と裁判所とマスコミ。いじめ問題における学校と教育委と文科省。同じなのだ。自己責任で見捨てられる。弱者は救われず、正義を与えられず、辱めと悲しみのうちに天を恨んで滅ぼされる。尊厳の自己主張を断念させられ、希望と繋がりと生きる場所を剥奪される。沖縄のときも、なぜか弱い側の、権力に踏みにじられる側が抵抗する些細な「暴力」や「違法」の行為が、殊更に針小棒大に強調され不当視されて、右翼とマスコミに政治宣伝の材料にされた。パレスチナ・沖縄・いじめ。貧困への視線も合わせれば、自己責任主義の冷酷思考と無視・無関心・切り捨ての四位一体だろうか。こんな時代は早く終わって欲しいと思いながら、20年以上、悪い方へ悪い方へ時代が進み、またガザの地獄に立ち会う拷問のときとなった。