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その棍棒置いてこい!

 Twitterで折りに触れて盛り上がるトピックはいくつかあるが、その一つの「リテラシーの低い封建的世界観の夫が終わってる話」が最近よく見られる。

 わかる。しょうもない人間っている、てか、しかいないと言ってもいい。ポテトサラダ手抜き発言に主婦が怒るのは仕方のないことだ。仕事から帰って家族のために食事の用意をするという苦行を一回ならまだしも生きている限り半永久的に毎日続けるなんて正気の沙汰ではない。半分気が狂ってあらゆる気力を失うか、逆にこの世のすべてに怒る人間になっても不思議ではない。ゴールデンエッグスに出てきたジェシカ姉さんを思い出した。

 冷凍餃子しかり唐揚げしかり、つまらんことを言う人間はつまらん人間なんだろう。

 ただ、こういう話がネット上で取り沙汰されるとき私が気になっているのは、Twitterのどこかにいる、棍棒を振り上げて待っている人たちの存在だ。ストライクゾーンに話題がやってくると「どれどれ」とやってきておもむろにフルスイングする人たち。多少見当違いで論点がズレ込もうとも構わない覚悟で振りかぶって、各々が懐で温めてきた正論を披露している。

 問題を提起されたときに、その場にある要素を用いて議論するのではなく、「そういえば前々から思ってたんだけど」と語り出す。まあ、雑談なら良いんだけど正当な怒りだと考えて、義憤と持論を混同するのは危険じゃないかと思う。一旦その振りかぶった釘バット置いてきてよ。

 まずSNSなんて誰が書いているかわからないんだから話が本当かどうかから検討すべきだ。また、怒りの矛先であるリテラシーのないハゲ散らかしたおっさんが実在するとして、その人の人生に思いを馳せるべきだ。人の行動がそれまでの経験で決定されるとするなら、他人の視点からは見えないような、その人の責任の及ばない場所に本当の要因があるのかもしれない。こんな話をしだすと自由意志と罪の問題になってしまうから面倒だけど、そういうことを考えることもできるのにそれをしないのは、前から自分が用意してきた武器が火を吹くところが見たい、人に見せつけたいという衝動に目が眩んでいるからだろう。君も、どんなしょうもない政治家も人間だということを忘れてはならない。

 でも普通人は怒る機会を待っていると思う。どんな人もその人なりの悲しみや苦しみと共に生きているはずで、そのやるせなさをどこかに破裂させたい。だからポテトサラダを買う人に怒るじじいと、それに怒る人々と、その怒りに虚しさを見出す私は皆同じことを違うレイヤーで繰り返しているだけだ。

 しかし我々のそういうトートロジー的しょうもなさをこそ愛していけないものだろうか。この世にしょうもない人間はいる、てか、しかいないと言ってもいい。私や、あなたがた。どうしようもね〜人の面白みを愛して。

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