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それがキレイに聞こえない

 例えば「努力は裏切らない」という言葉。一見すると素晴らしい言葉だが、言うだけなら俺でもできる。大事なのはそう思う根拠にある。なぜそうなるのかの証拠になる個人の体験が大事であるのに、肝心のそこが抜けてる状態で放り投げられるのをちらほら見る。そのキレイなラベルにふさわしい中身が伴わないことには、私の場合、知らないやつが頼んでもないのにやってきて、無責任なアドバイスをしてくるようで少し癪に障る。

 そもそも名言がなぜ短い言葉で響くのか。それは、その余韻まみれの空白部分にいちいちこちら側の人生経験を重ねるからである。そういう照合作業をする価値があるのかないのか、人間は足元を見て判断する。だから、偉人のことは無理にでも理解しようとして、誰とも知らない方のそれが入ってこないのは当然で、知らないやつに自分の事情は棚に上げて、さも啓蒙でもしてるつもりかもしれないが、人間そんなに単純ではない。 

 本当に申し訳ないが、ここで詩なんかも読んでいて感じるところだが、当人も果たして何かよくわかっていないものを読み手が見ても解釈が玉虫色になる。ここはその練習という兼ね合いもあるのでそれは言い過ぎたかもしれない。ごめんなさい。

 しかし、名言だけは逃がさない。これにはその試行の痕跡すらない。余程、楽でいいだろう。正直なんでこんなこと書いたかというと、文章は短いわ、いいねは貰えるわでコスパは最強、羨ましい限りだからだ(笑)。書けるもんなら俺だって書きたい。が、私はそれをするために書いているわけではない。目的も違う人間の首根っこ掴むのは大変無礼だが、はっきり言うとやっかんでるだけです。すみません。 

 だが、私は食べるところも少ない、さして美味しいわけでもない魚を高級魚のようにありがたがるつもりはない。大層なラベルを貼るからには、それに伴う中身があってこそだと思う。こう言うからにはまず言い出しっぺの私がやらなければいけなくなる。すごい大変だ。書かなきゃよかった。

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