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ハムレットはあなたの心を暴く

演劇好きと公言しておきながら、シェイクスピアに苦手意識があります・・・。
独白が長いイメージで、全部心の内はしゃべってしまう芝居なんだと思い込んでいまして。ダイナミックなストーリー展開と、その分かりやすさで、世界中に人気がある作品なんだと、思っていたんですね。

読んでみたら、ぜんっぜん違いました。
こんなに余白が存在しているとは思わなかった。余白といえば聞こえはいいのですが、これもしかして出来が悪いだけなのでは?とすら思うシーンもあります。笑

あらすじ

ハムレットといえば、父親殺しの復讐劇ですよね。
象徴的な冒頭のシーンは、父親の亡霊をハムレットの家来が目撃するところから始まります。
父の死、そして母と、叔父クローディアスとの再婚で思い悩むハムレットは、すぐにこの亡霊に会いに行きます。そこで語られたのは、父(前王)を殺害したのは現王のクローディアスであるということ。
ハムレットは叔父であるクローディアスへの復讐を決意するのです。

なぜ狂ったふりをするのか?問題

読書会では、復讐のために狂ったふりをするのは常套句なのだという情報もありました。
ではあえてそこに意味を考えてみたらどうでしょうか?
狂ったふりをするメリット、それは相手を油断させるため。ハムレットの最終目的は王殺害です。今は父親として、毎日のように顔を合わすのではないでしょうか。そんな間柄では秘密は持ちにくい。クローディアスに「敵ではない」と思わせるには有効な手段かと思います。
狂ったふりをするメリットその2。周囲に対する配慮。
もし仮にも復讐が成功したら、その後、王となるハムレットの印象としてどうでしょうか。ギラギラと隙を狙っていた男と、父への愛のあまり、気が狂って王を殺してしまった、つまり間違いを起こしてしまった男。
どちらがその後、受け入れられやすいか。

気狂いを受け入れるか否かという問題はさておき、正気ではなかった、というのは善人の否定にはならない。
父への愛のあまり、がうまく強調できれば、むしろ賛同者が出そう。そんなわけで、今後の身の置き方を考えても「気が狂ったふり」は有効なのです。

論点は少しずれますが、そもそも本当に狂っていたら?という解釈もできる。
一幕五場、亡霊から父の死の真相を聞いた後、マーセラスとホレイショに今夜のことは口外しないと誓え、とハムレットが迫るシーン。
 ーほう!そんな所にいたのか、貴様。あの地下の声を聞いたな?さあ、誓え!
(中略)
 ー今度はこっちに来おったか。(略)さあ、誓え!
(中略)
 ー大した早業!それほど素早く地中に掘り進むとはな。よし、今一度場所を変えよう。

亡霊が次々と場所を変えるので、なかなか誓う場所が定まらないハムレットと、それに振り回される家来たち。
このウロウロして気が高ぶっているセリフ回し。しかも家来たちには亡霊の姿も声も届いているのかが明記されていない。もしかしたら、ハムレットただ1人が見える亡霊に振り回せれているだけなのかもしれない。
これって気が狂ってはいないでしょうか?

亡霊とはなにか?問題


ではここで冒頭のシーンに戻ります。
亡き王の姿をした亡霊を、ハムレットの家来たちが目撃します。亡霊はここでは口を開かず、何も言いません。ハムレットになら何か話すのではないか、ということで、家来たちはこのことをハムレットに話すことに決めます。
私はこの亡霊、当初は本当にいるんだと思って読んでたんですよね。
でも後から「ん?」と引っかかったんです。
あの亡霊は亡き王の悔恨が形となって現れたものなのか。
それとも、ハムレットの思い込みで作れられたハムレットの妄想通りに動く生き霊のような存在なのか。

そして読書会では、さらに新しい考察も。

あれは、ハムレットお抱えの役者がハムレットに演じさせられていたのではないか?という説。ハムレット以外の目撃者をつくって信憑性を高めるために、初回の亡霊登場は、ハムレット不在の時に行われた・・・とか。

さらにさらに、あの亡霊、ハムレットが演じていたのでは?という説も。これは面白い!亡霊ひとつとっても考察祭りじゃん!

実はこの冒頭のシーン、シェイクスピア演出で有名な蜷川幸雄も「冒頭がやっかい」とぼやいていました。蜷川は、台本至上主義な演出家です。台本が明示していないことはやらないはず。さて、この亡霊どのように表現したのでしょうか・・・?


オフィーリアかわいそう問題


ハムレットに熱烈に口説かれ、両想いだったオフィーリア。クローディアスに尽くすポローニアスを父に持ち、ハムレットの親友のレアティーズは自分にとって兄。
兄に、ハムレットの誓いなんて信じちゃダメだぞ生娘なんだから、とお説教されても「OK!気をつけるね!」
父上に、同じことを説教されても
「O K!気をつけるね!」
と、めっちゃ素直なんですね。素直通り越して自分というものがないんじゃないかというくらい。

そんな素直なオフィーリアはハムレットを探るダシに使われて、ハムレットにすげなくされます。愛する父を愛するハムレットに殺されて気が狂ってしまい、本意なのかはわかりませんが、川に落ちてそのまま死んでしまいます。オフィーリアの人生こそドラマですよね。
ただ愛していただけ、ただそこに自分の意思がなかっただけで、死んでしまう。

この物語が始まったところから、ハムレットはオフィーリアに一度も愛など囁いていません。ただ過去の愛情を信じて生きている。
2人がどんな言葉で愛し合い、どれだけその愛が確かなものだったのか、私たちは伺い知ることはできないのです。

オフィーリアがかわいそうすぎる、という感想も読書会では多かったように感じます。

そんな「オフィーリア可哀想やんけ!」な方には読書会でご紹介いただいた、びじゅチューンの「オフィーリア、まだまだ」を私もおすすめします。きっと彼女は背泳ぎで逞しく川を泳ぎ切って、いつかハムレットよりイケメンな彼氏ができることを祈ります。

そもそも復讐劇なの?問題
〜父ちゃんのことはどうでもいい〜


そもそもこれは「復讐劇」なのかすら、読んでいて怪しくなりました。
なぜなら、ハムレットの口から「父親」のワードが全然出てこない。生前どんな方だったかさっぱりわかりません。
ハムレット登場シーンの最初の独白は、ほぼ不義理な母親を責める言葉なんです。父親が死んで悲しい、あんなにいい人だったのに、どうかもう一度会いたい、とかないんですよ。たった2ヶ月で叔父と結婚しやがって・・・という糾弾ばかりです。

 ーたった二月。どんなに不実な涙でも、まだ目は赤く泣きはらしているはずだ、それを、結婚した。理性を持たぬ獣ですら、あれほど急きはしなかったろう。弱きもの、それが女。

母=獣以下という扱いです。
父を失った悲しみ<<<<<<母への怒り

そして父(亡霊)もこの調子。

 ーたとえ欲情そのものが、天使の姿を借りて言い寄ろうと、まことの貞女ならばけっして心を動かさぬはず。だが淫らな女は、かりに輝く天使と結ばれていようと、天上の臥床に飽きて、ごみ溜めの腐れ肉を漁るもの。

腐れ肉を漁るってすごい悪口ですよね。パパも元奥さんに対して辛辣。

そんな似たもの親子ですが、ハムレットの母に対する失望と怒りは、恋人オフィーリアにも向かいます。

一幕七場のハムレットとオフィーリアが回廊で2人で話すシーン。

 ーお前、美人か?
 美人でおまけに貞淑なら、貞淑には、美貌と付き合いはさせぬことだな。
 美貌という奴、貞淑をたぶらかして男を取らせぬとも限るまい、貞淑が美貌の性根を変えるよりはな。

愛していた恋人にひどいこといいますよね。ママが美人だったかどうかは本を読む限りはわかりませんが、ママの再婚をきっかけに女の見方が180度変わったように読むことができます。

女性サイドからはとくに賛否はないのですが、男性からはいろんな人が、いろんな言葉で恋愛に対する諦観・絶望が語っています。

さきほど触れた兄レアティーズから妹オフィーリアへの説教もそうです。

 ーハムレット様がご執心のようだがな、いいかオフィーリア、あの方の誓いなんぞ信じてはならんぞ。

オフィーリアの父・ポローニアスからの説教はこちら。

 ー椋鳥を捕える罠だぞ、そんなもの。そうともさ。血潮がカッカと燃えてくれば、口先が勝手に誓いの言葉を大安売。

 ーそれもこれも、純潔の錠をこじあけんがための情欲の鍵。さ、来なさい。男心というものはな、諺にも言うとおり、「言葉ばかりはことごとしくとも、ことが終われば心も空」だぞ。

ハムレット、ハムレットパパ、オフィーリア兄、フォーリア父、それぞれの口から、刹那的な恋愛観が語られます。

ハムレットは直接母をなじるシーンも。

これは、もはや「恋愛への失望」を描いた作品といってもいいのではないか。父や兄に翻弄されながらも、純粋にハムレットを愛したオフィーリアが死んだことは、その象徴ともとれるはず。

失った「純愛」に対する男たちからの悲しみ、憤り。

ハムレットは父と母の愛情関係を信じていたのでしょう。
そこには「敵わない」という劣等感すらあったかもしれない。オイディプスコンプレックスのようなものが、ハムレットの中に働いていたのかもしれない。
全ての息子にとって、初恋は母親なのかもしれません。そして初恋は実らない。すでに母親は父親というパートナーを持っているのだから。
「父だから敵わない」という、彼の中で落とし込む要だった部分が、たった2ヶ月で別の男に破られる。これはショッキングな出来事だったでしょう。それはやがて、いや、すぐにでも、純愛のシンボルであった母に、裏切られたのだと矛先がむく。

そのように考えると、ハムレットが殺したかったのは、寝盗った叔父ではなく、たやすく寝取られた母だったのかもしれない。

母は初恋、純愛のシンボル。父への復讐という傘に隠れて、ハムレットが怒りをぶつけたかったのは、死んだ純愛だったのではないか。

B G Mは銀杏BOYZでどうでしょうかね。

上演台本として見る「ハムレット」

さて、このハムレット、さまざまな謎を含んでいることはお分かりいただけだでしょう。この謎の部分を文学的には「余白」というのでしょうか。

たとえば、
・なぜ狂ったふりをするのか?問題
・亡霊とは何か?問題
・そもそも復讐劇なの?問題

ここで挙げただけでも、さまざまな解釈ができるんです。

上記以外で私が興味深いと思ったのは、
・ハムレットっていい奴なの?問題
です。
私はすごく面白かったのでご紹介しますね。

クローディアスが、王暗殺をテーマにした芝居を観た後、ひとり懺悔するシーンをハムレットがこっそり除いているんです。今こそ復讐のチャンス!でもハムレットは、罪を悔やんでいるところで殺してしまったら、奴は天国に行っちゃうかも・・・という理由で暗殺をやめちゃう。

このシーンで、悪役クローディアスと、悲劇の王子ハムレットの立ち位置が逆転したという解釈があったんです。

罪に意識にさいなまれ、罪を背負いながら生きていく悲劇の王クローディアスと、相手の一番苦しい死に方を模索する、ただの殺人鬼に成り下がったハムレットという構図。この逆転、すごく面白いですよね。
このシーンから急激に観客がハムレットから心が離れていくように演出していくと、ラストシーンはどんな印象になるのでしょうか?

クローディアスの人間らしい弱さをあえて描くことで、クローディアスの役が生々しくなり、役者に演じやすくなります。
自分を「悪役」と思って生きている人間はいません。「悪役」のように見える理由が彼らの中にはあって、今回は主人公の視点で切り取られた作品だから彼らは「悪役」というポジションであるだけですね。
ということは役者は「悪役」を「悪役」だと思って演じてはいけない。その手助けになるシーンが、クローディアスの懺悔のシーンだったと思います。

話しは逸れましたが、ハムレットで投げかけられている○○問題は、すべてその役を演じる役者が自由に演じられるあそびの部分なんです。
演出家についてもそうです。○○問題をどう解釈するかで、お芝居全体の見え方が変わってくる。その操作ハンドルがいくつも用意されていて「お前色に染めてくれよ」という作品が「ハムレット」なんです。

役者や演出家の表現したい欲を引き出す脚本、だから後世まで愛されて上演され続けているのではないでしょうか。

さらに言えば、シェイクスピアの芝居の土壌、ヨーロッパは演出においても議論合戦。どう本を読み、どう解釈し、それが正しいことを舞台で証明する、そういう土地の本なんです。ハムレットなんて絶好の叩き台になりますよね。

読書家である我々にとっての「ハムレット」は心理テストみたいなもの


ラノベみたいに小タイトルが長くなってしまった。。。

ところで、私はこの作品を「純愛に裏切られた男の怒り」だと読んだのですが、いかがだったでしょうか?

実はこれ、私が女だったから、こういう結論を持つのかな、と自分では考えています。
ハムレットから、オフィーリアも、母・ガートルードも、めちゃくちゃ辛辣なことを言われるじゃないですか。

いやいや、だって好きだって言ってたのアンタの方でしょ?贈り物も手紙も渡してないなんてどの口が言うんじゃボケ?!

たった2ヶ月で結婚したことをやたら責めますけど、あなたの身の安全を考えてのこととか、パートナーを失った悲しみを全面に引き受けてくれて優しさが嬉しかったからとか、そういう事情は想像もしてないじゃん!?

って、彼女ら目線でめっちゃキレそうになるんですよね。

そうなると、女への悪口、恋愛へのぞんざいな態度(セリフ)には敏感になる。アンテナが立っちゃったんですね。

罵られる側に寄り添ってしまったが故に、なぜ罵られたのかを分析してしまった、ということです。結果「男の初恋は母親」という説を持ってくるあたり、1歳と4歳の男の子を育てている真っ最中なかんじ出てますよね。笑

一方で、読書会ではハムレットが母の再婚にあれだけ文句を言うのは、自分が王になれた可能性を潰されたからだ、という解釈もあった。なるほど、社会で闘っている男性らしいアンテナの立ち方ですよね。

つまり、「ハムレット」という作品は、今自分のアンテナがどこに立っているのかが、明らかになってしまう本なんだと思うんです。

誰に共感するのか、どんな背景を想像するのか、それは読書家であるあなた自身が「アンテナ」を持っているからなんです。そしてそれには偏りがある。

これってすごく面白いですよね。

今はママラブな息子たちと日々を送っている私は、母とハムレットの関係にアンテナが立ちました。

でも、息子たちが手を離れ、仮に私が不倫でもすれば(予定は一才ございません)クローディアスの心情にアンテナが立つかもしれない。

父が亡くなればハムレットに、思春期の息子たちを抱えるころにはポローニアスにアンテナが立つことでしょう。
(そしてオフィーリアにはもうアンテナが立ちそうにない・・・悲しい・・・)

なので36歳の私がこれを今書き残しておくことに、意味があると思いました。長くなりましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

ハムレットは感想を語る前に、注意が必要かもしれません。
思わぬところで自分の心の内を自白してしまう、心理テストみたいな作品ですから。

まとめ

今回も読書会の皆さんの解釈を下地に、自分の解釈も加えて書いてみました。
読書会、めっちゃ楽しいんですよ〜!

実は今回は自論とズレるので割愛したのですが、「神=世間の目」という解釈もめちゃくちゃ私には刺さりました。
日本人なので、キリスト教なんてわからん、な態度ですが、そういう肌感覚があるのだとしたら・・・と他の作品を読む上でもいい問いかけになりそうです。

演劇好きとして、ハムレットの面白さが(やっと)わかってよかったです。いつか蜷川ハムレットをDVDとかで観たいなぁ。


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