思考の癖を探す
子どもの頃から、これが欲しい、あれがやりたいと言えない子どもだった。物心がつく前には言えていたのかな。
物心がついた頃には、すでに我慢することを覚えていた。今も時々、買い物中に何かが欲しいと言って泣いたり、叫んだりしている子どもを見ると、自分もあんな風に子どもの頃にできていたらなと思うことがある。子どもながらに周りを気にしていた気がする。
子どもは何も分かっていないとか、気づかないと思っている大人は多いけど、子どもながらに感じていることはある。自分には子どもはいないけど、自分の経験上、子どもの方がそういう点では優れていると思う。子どもなりに考えている。
小学校の低学年までアパートに住んでいて、周りには同じ年代くらいの子たちがいて、少し裕福な子の家にファミコンがあって(ファミコンが出てから数年くらいの昭和の時代)、みんなで遊びに行くような時代。自分の家が貧乏だとか、金持ちだとかは、まだ分かっていなかったと思う。でも、両親の態度や雰囲気から感じ取っていたのだと思う。お金がない家だということに。
お金がなくても、明るく楽しく暮らしている家はある。そういう家だったなら自分もやりたいことを言える子どもになれていたかもしれない。いや、兄や妹は欲しいものは欲しいと言ってた気がするから、自分だけが勝手に親に気を遣って言わなかっただけなんだと、今では思う。
どこかに連れて行ってもらったり、遊んだこともあるけど、お金のことで揉めている記憶と、お酒のことで喧嘩している記憶の方が残っている。(今考えると、父はアルコール中毒とDVだった)でも、その記憶も思い出そうとしなければ、本当にあったことなのか分からなくなってきている。長いこと父に対する愚痴や不満を母から聞いていたので、本当にあったことなのか、母に植え付けられた記憶なのかが分からなくなっている。
そんな両親だったから、自分がしっかりしないと、と頑張っていたなぁ。
家庭内がごちゃごちゃしていると気付かれないように、良い子を演じてたなぁ。
あの頃は必死に生きてて、自分以外の周りは幸せな家族ばかりとか、幸せなのはドラマや小説の虚構の世界の出来事なんだと思っていた。今、色々な人が毒親の話を書いたりしているのを見て、自分だけじゃなかったんだなと思っている。
自分の思考の癖が幼少期に出来上がっているものだということを知って、記憶を辿ってみたら、確かにそうだと気付けた。
お金がないからできない、という呪文をかけられていたというか、自分でかけていた。
だから、自分で稼ぐようになってお金があるのに、使うことに抵抗があった。周りには節約をしているように思われることもあった。基準が欲しいものではなくて、安いものだった。食べたいものより安いもの、と値段を見て決めることもあった。
少しずつではあるが、そういうお金の使い方を止めるようにしてきた。
食べたいものは食べなかったとしてもそこまでの影響はないけど、欲しいものは欲しいものを買わなければ、気に入らなくて、買い直して結局欲しいものを最初から買った方が安かったということもある。
今は食べたいものも、欲しいものも選べるようになった。その時自分を満足させる、楽しませるものを選ぶ。
最初からそれができている人には、そんなこともできなかったの?と言われるようなことかもしれない。はい、できていませんでした。でも、もうできます。
他人がどういう基準で物を選んでいるかなんて分からない。その人なりの考えがあるのだ。
だから、何を買っていようと買わないでいようと、気にすることではない。
食べたい物を食べて、欲しいものを買って、自分の暮らしを楽しめばいい!
他人じゃなくて、自分を見よう。
読んでいただき、ありがとうございます。
皆様に幸多からんことを。
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