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ピアソラにまつわる7つの誤解

すでに半分が過ぎてしまいましたが、2021年はピアソラ生誕100年。
節目の年だけあって、今年の後半も多くのピアソラに関連したコンサートや特集が組まれていくはずです。

いまや大人気の作曲家とみなされるようになったピアソラですが、彼の業績や人生については不思議と正確に語られていないことが多いようです。これは多くの場合、タンゴという音楽自体への誤解や軽視が原因になっています。
現在はひと昔前に比べてピアソラやタンゴについての書籍や音源は容易に手に入るため、間違えた情報や珍説が独り歩きしている状況は変えていかないといけないでしょう。

今回はこれまで見聞きして「???」となった、巷に広がるピアソラに関する誤解をピックアップしてみたいと思います。

1.ピアソラが初めて「ではない」こと

タンゴの音楽的な革新はすべてピアソラが行ったように解説されることがありますが、それは正確ではありません。

・聴くためのタンゴ
・3・3・2のリズム
・打楽器的な奏法
・クラシックやジャズの要素の導入
・エレキギターの導入


これらはタンゴの中でピアソラだけが行っていることでも、ピアソラが初めて行ったことでもありません。

たとえばクラシック音楽を学びタンゴに取り入れた先駆者にはフリオ・デカロがいます。ピアソラは彼への敬意を込めて「デカリシモ」を書いていますが、デカロ以降でタンゴは音楽的に大きく飛躍していくことになる、まさにタンゴのパイオニアといえる人物です。

またエレキギターの本格的なタンゴへの導入はウバルド・デリオが先んじていますし、3・3・2のリズムや打楽器的な奏法もピアソラ以前のタンゴでも見られた奏法です。
つまりタンゴにもともとあった要素を巧みに利用して、発展させていったのがピアソラなのです。

重要な「聴くためのタンゴ」論争に関しては次の項目に譲りましょう。


2.ピアソラだけが「聴くためのタンゴ」?

「ピアソラはそれまでの踊りの伴奏でしかなかったタンゴを『聴くための音楽』という芸術に高めた」

この解説は非常に「それらしく」聞こえるためか、頻繁に耳にするピアソラ論です。しかし「タンゴが踊りの伴奏でしかない」という部分が大きな誤解を含んでいます。

これについては小松亮太氏の著書「タンゴの真実」が詳しいのでぜひ読んでいただきたいですが、タンゴが純粋に踊りの伴奏でしかなかった時代というのは最初期のころに限られます。タンゴが「場末のヤクザ者たちの音楽」というネガティブなイメージを払しょくし、市民権を得ていく中で、次第にダンスのBGMとしてだけではなく、器楽曲や歌謡曲としてタンゴを聴いて楽しむという文化が根付いていきました。

こういった流れは次第に加速していき、1920年代からは先にあげたデカロらの活躍もあって、タンゴはもはや「ダンスの後ろで単純なリズムを刻んでいる」とはいえない音楽に進化していきます。タンゴは「一般市民が気軽に楽しめるダンス音楽である一方、その裏で複雑で芸術的なことをめざしていく」という不思議な音楽に発展していったのです。
これはおそらく当時のブエノスアイレスの文化水準の高さも後押ししたことでしょう。

特に1940年以降はアニバル・トロイロ、オスバルド・プグリエーセ、カルロス・ディ・サルリ、フアン・ダリエンソ、フランチーニ=ポンティエル、アルフレド・ゴビといった巨匠たちがタンゴ界をけん引し、黄金時代と呼ばれる絢爛たる発展の時期を迎えます。
その黄金時代が始まったころ、タンゴ演奏家になることを目指してブエノスアイレスに来たのが若き日のピアソラだったのです。

こうしたタンゴの歴史を知らないと、「ピアソラだけが孤軍奮闘して芸術的なタンゴをめざした」と誤解がちですが、むしろタンゴ自体に芸術性を強く求める流れが存在し、その最先端としてピアソラが前衛タンゴ運動を打ち出したと理解するべきでしょう。


3.「ピアソラ作曲」だけではありません!

オリジナル作品の自作自演をしている印象が強いピアソラですが、実際は自作曲のみで勝負するようになったのは、彼が40代半ばになった頃からでした。

それまでのピアソラは従来のタンゴのアレンジに重点を置いており、自ら演奏するほか、他の楽団に編曲を提供することも重要な収入源になっていました。膨大な数の作品をアレンジすることによって、ピアソラがタンゴへの理解を深め、自らの作品の表現へと落としこんでいったこと、高度な作曲の技術を磨いていったことは明白です。

またネット上ではピアソラが編曲したタンゴまでもが「ピアソラ作曲」として誤って紹介されている例も度々見られるので注意が必要です。

その重要性のわりに、これまで省みる人の少なかったピアソラの編曲作品はこれから再評価されていくべきでしょう。
実際にブエノスアイレスでは初期の「1946年の楽団」を再現するプロジェクトが始まっています。


4.ピアソラは80年以前のものは聞く必要がない?

石川浩司氏著の『タンゴの歴史』によると『ピアソラは80年以前のものは聞く必要がない』と自著に書いた音楽評論家が昔いたそうです。

石川氏の著作では「80年代のタンゴ色が弱く、グローバル化されたピアソラの音楽をその人は評価するということだろう」と一定の理解を示しながらも、「ピアソラがそこに至った過程やタンゴの歴史を無視することは適切ではない」と書いています。

確かに70年代までの軌跡を考慮せずにピアソラを正確に語ることは不可能です。彼の音楽がどのような土壌で形作られ、世界的な評価を得るに至ったが完全に抜け落ちてしまうのです。

もちろんこれは古い評論の話で、当時の情報量では乱暴で偏見に満ちた内容にならざるを得なかったという面もあるでしょう。とはいえそれなりに影響力のあった評論だったようで、いまだにちゃんと聴きもせずに、この手の持論を振りかざす人は案外多そうな気がします。


5.ピアソラは生前は評価されていなかった?

「ピアソラは生前ほとんど評価されていなかったが、死後クレーメルらに発見されて再評価が進んだ」という解説を時々耳にします。

実際にクレーメルやヨーヨー・マといった名奏者が取り上げるようになり、クラシック音楽のファンもピアソラの音楽に親しむようになったことは否定できません。とはいえ少なくとも生前のピアソラが全く評価されていなかったという解説の仕方はアンフェアでしょう。

むしろピアソラはタンゴ業界では若いころから実力を評価され活躍していました。キャリアの最初期に人気楽団だったアニバル・トロイロ楽団に在籍したことで、20歳そこそこの若さながら、その演奏や編曲の能力を認められ業界内での人脈も広がりました。

また70年代以降は海外での活動も増え、タンゴ以外の音楽ファンの間でも次第に名前を知られるようになります。特に80年代は世界各国で数多くの公演や作曲依頼をこなす、多忙極まる日々となりました。日本でも多くの音楽業界人がピアソラに注目しており、4度にわたる来日公演も行っています。

「ピアソラが死後初めて評価された」という説は、おそらくゴッホなどのような「不遇の天才」というイメージを彼に持たせたいのでしょうが、誤りと言っていいでしょう。


6.ピアソラはタンゴ界の嫌われ者?

「一般的なタンゴファンやタンゴ業界人はいまだにピアソラを評価していない」と思い込んでいる人もいるようです。

これはピアソラ自身がメディアに対しての発言の中で、「保守的なタンゴファンから猛攻撃を受けた」「タンゴファンのタクシー運転手から乗車拒否をされた」「身の危険を感じた時期もあった」などと度々語っていたことも原因のひとつでしょう。

確かにピアソラの新タンゴを受け入れがたく感じ、批判していたタンゴファンや業界関係者が多かったのは事実です。
しかし同時に彼の熱狂的なファンも当時から多く、タンゴ界でもアニバル・トロイロやオラシオ・サルガン、オスバルド・プグリエーセといった革新的な音楽家達は彼の音楽を高く評価していました。特に60年代のピアソラは前衛派タンゴの旗手として活躍し、そんな彼を尊敬していた後身達はその後長くタンゴを支え、活躍していくことになります。ピアソラを憎んだ人々もピアソラの力量や影響力を理解していたからこそ、批判が苛烈になったのでしょう。

ピアソラはタンゴ界から離れた場所で独自の活動をしていたわけではなく、賛否両論巻き起こしながらも常にタンゴ界の中で新しい音楽を創造していきました。タンゴの世界をかき回しながら発展させていった一種のトリックスター的存在といえるでしょう。

またピアソラの音楽を通じてタンゴに興味を持ち、タンゴのミュージシャンを目指した新しい世代の演奏家も増えています。
ピアソラの存在を否定しては現在のタンゴ界は立ちいかなく程、彼のタンゴへの影響力は強かったのです。


7.ピアソラはタンゴではない?

「ピアソラはタンゴか否か」はピアソラの生前から繰り返し論争されてきました。ピアソラを嫌うタンゴファンも、ピアソラを過度に崇拝する人も、不思議なことに共通して「ピアソラはタンゴではない」というセリフを好んで言いたがります。

いわく、「ピアソラはジャズだ」「ピアソラはクラシックだ」「いや、ピアソラはピアソラというジャンルなんだ」・・・・
ピアソラを「それ以外のタンゴ」から何とか切り離したいと考える人がいるのは確かでしょう。

ピアソラ自身、長い音楽人生の中で、タンゴに寄り添った時期もあればタンゴから遠のいていた時期もあります。

しかしピアソラ自身が最後まで「自分はタンゴの人間だ」という信念を周囲に語り続けたことは無視してはいけません。

ピアソラは大変な勉強家で、クラシック、ジャズ、ポピュラーミュージックなど様々な音楽の要素をどん欲に吸収していった音楽家ですが、それらを一つにつなぎとめている「タンゴ」という要素無くしては彼の音楽は空中分解してしまったでしょう。彼の音楽の軸がぶれなかったのは、彼の中にタンゴという大きな柱が常にあったからです。

彼は人生最後のインタビューの際、このような言葉でタンゴへの愛情を表現しています。

『私には2人の偉大な師がいた。
ナディア・ブーランジェとアルベルト・ヒナステラだ。
しかし3番目の師は寒い下宿屋や40年代のキャバレーやカフェ、過去と現在の人々、町の音の中で見つけた。
その師の名はブエノスアイレス。
タンゴの極意を私に教えてくれた。』

ピアソラ生誕100年の今年こそ、ピアソラが生涯追い求めた「タンゴ」とは何かを今一度見つめ直してみないといけません。

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