ピアソラ

【ピアソラの転機】アディオス・ノニーノの誕生

現代タンゴの巨匠アストル・ピアソラの自他ともに認める代表曲といえば何といっても「アディオス・ノニーノ」でしょう。
この作品が彼の人生におけるひとつのターニングポイントになったのは間違いありません。

ブエノスアイレス8重奏団

パリ留学に大きな手ごたえを感じたピアソラは、1955年にアルゼンチンに帰国後すぐに先鋭的なブエノスアイレス8重奏団(Octeto Buenos Aires)を結成しました。
タンゴの伝統的な楽団(オルケスタ・ティピカ)はバンドネオン、バイオリン、ピアノ、コントラバスという編成ですが、ピアソラは当時のタンゴでは使用されないチェロとエレキギターを加え、バンドネオン2、バイオリン2、ピアノ1、コントラバス1、チェロ1、エレキギター1という編成に拡張しました。

「この8重奏団があまりにもタンゴからかけ離れているのでは」と不安になったピアソラは尊敬する先輩であるオスバルド・プグリエーセに意見を求めました。プグリエーセは「これはまさしくタンゴである」と評価し、ピアソラたちは大いに勇気づけられました。

既存曲のモダンなアレンジや自作曲によるレパートリーを取り上げ、大胆な不協和音や打楽器的な奏法も伴った新しいリズム感、各奏者のソロ、即興演奏などを取り入れたこの8重奏団の革新的なサウンドは、確かに一部では絶賛されました。
しかし当時のアルゼンチンのタンゴ界にはまだこの新しいスタイルのタンゴを受け入れる下地はなく、むしろ保守的な人々からは「タンゴの破壊者」と罵られる始末‥‥ピアソラが期待していたほどの大きな動きは作り出せませんでした。

ニューヨークでの挫折と父の死

保守的なアルゼンチンに失望したピアソラは8重奏団を解散し、1958年に新たな活動の場を求めて少年時代を過ごしたニューヨークに移住し、アメリカ市場向けのジャズ・タンゴという方向性で活動を開始しました。
しかしこのジャズタンゴという戦略は音楽的には中途半端な結果に終わり、後にピアソラ自身も大失敗だったと認める徒労に終わってしまします。
彼の音楽はアメリカではまったく話題に上がりませんでした。
特筆すべき新しい展開もなく、経済的にも追いつめられて不本意な仕事を続けるしかないという人生最悪の状況だったピアソラに追い打ちをかけるように、1959年の終わりごろ父ビセンテ(愛称ノニーノ)の訃報が届きました。 

敬愛していたノニーノの死に打ちのめされたピアソラはアパートの一室に閉じこもり、パリ時代に父に捧げて作曲した作品「ノニーノ」をバンドネオンで演奏していましたが、やがて鎮魂歌風の新たなパートを続けて演奏し始め……
これがピアソラ自身が「多分天使に囲まれていたんだ。これを超える作品はいまだに書けていないだろう」と後に語った名曲「アディオス・ノニーノ」の誕生でした。
ピアソラが真に自分のスタイルを発見した瞬間ともいえるでしょう。

その後、アメリカでの活動に見切りをつけて1960年にアルゼンチンに帰国したピアソラは、以降の彼の活動の中核となる五重奏団(キンテート)をはじめとした新たな活動を精力的に展開していきます。
まるで父親の死によってすべての迷いが断ち切られたかのように。

ピアソラの苦悩と創造性

ピアソラの評伝『ピアソラ~その生涯と音楽』ではこの父の死に着目し、この出来事の後から公私ともにピアソラの生活が激変することを指摘しています。

バンドネオンを買い与え自分をタンゴの世界に引き入れるきっかけを作った父。
「よき父親」「よきアルゼンチン人」であり「タンゴを愛する人」であり、ピアソラがタンゲーロ(タンゴ演奏家)になったことを誰よりも喜んでいた父。

……そんな父を失って、ピアソラの心に大きな動揺と分裂が生じたのです。

実際にこの父親の死と「アディオス・ノニーノ」以降、ピアソラの結婚生活や人間関係は破綻していくことになり、音楽面でもより過激な「タンゴ革命」に乗り出していくことを考えると、これは興味深い視点です。

そしてこの「アディオス・ノニーノ」以降の、精神的には葛藤と混乱を極めた時期が、ピアソラが最もクリエイティブで重要な活動をしていた時期と一致していることは、見逃してはいけない事でしょう。

自分の目指すべき「理想の父親像」を無くし、これまで自分をつなぎ止めていたタガが外れてしまった事によって、皮肉にもピアソラは本当に自由な創造が可能になったのかもしれません。


タンゴ・グレリオのバンドネオン奏者・星野俊路による「アディオス・ノニーノ」のバンドネオンソロです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?