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パリのピアソラ~ナディア・ブーランジェの教え

アストル・ピアソラが後に自分の師として第一に名前をあげた人物はフランスの音楽家・教育者であるナディア・ブーランジェでした。
多くの著名な音楽家を育てた名教師ナディア・ブーランジェとの出会いは当時30代だったピアソラにとって、その後の人生を変えた重要な出来事でした。

ピアソラ、タンゴをやめる?

パリ留学のきっかけはクラシック音楽として作曲した作品「交響曲ブエノスアイレス」がファビアン・セヴィツキー賞を受賞したことでした。(ピアソラにこの手の話は付き物ですが、初演のあと聴衆は賛否に分かれて乱闘騒ぎにそうです)
この賞の一環としてフランス政府から留学のための奨学金を勝ち取ったのです。

当時のピアソラは時おり作曲や編曲の仕事は受けるものの、バンドネオンすらほとんど弾いていない状態で、旧態依然としたタンゴに見切りを付けつつある時期でした。パリへの渡航も本格的にクラシック音楽の作曲家に転向するための勉強をする事が目的だったようです。
そして1954年、ピアソラは念願かなってパリに渡航します。

人生を変えた教え

パリでのブーランジェのレッスンに先駆けて、ピアソラは自作の「クラシック作品」の楽譜を大量に持参して見てもらいました。それをチェックしたブーランジェはしかし、よく書けているものの何かが決定的に足りないと思ったようです。
彼の経歴を不審に思ったブーランジェは「アルゼンチンではどんな音楽をやっていたのか」と問いただします。
当時は「タンゴは大衆向けのレベルの低い音楽」という偏見がまだ強かった時代‥‥ピアソラはタンゴ奏者としての過去を隠したがっていたのです。

ブーランジェに追及されてピアソラはしぶしぶタンゴの演奏家だったことを告白し、彼女にうながされるまま自作のタンゴ「勝利(Triunfal)」をピアノで演奏してみせました。

馬鹿にされるのではと恐れていたピアソラでしたが、それに反して冒頭の一部を聴いただけで彼の才能を悟ったブーランジェは「これが本物のピアソラよ。この音楽を決して捨ててはいけない」と励ましました。
この助言がその後のピアソラの音楽の方向性を決定付けた大きな転機となったのです。

一年に満たない短い期間のレッスンでしたが(内容はとても濃く、厳しいレッスンだったようです)、自らの音楽のアイデンティティを再認識させてくれたブーランジェを「第2の母」と感じて、彼女への敬意と感謝をピアソラは生涯忘れなかったそうです。

パリでの音楽活動

この短期間の留学が勉強と観光だけに終わらなかったのがピアソラのバイタリティのすごさです。
ブーランジェの元で自信を取り戻したピアソラは滞在中にフランスのレコード・レーベルと契約して一か月あまりのうちに16曲ものタンゴを作曲、レコーディングしました。

それらの作品はそれまでに作曲した作品と比べ、よりクラシック音楽やジャズの要素が強まっており、古典的なタンゴの構成や楽器編成からも遠ざかっていました。
いよいよピアソラの作曲の方向性が固まり始めたことが聴き取れます。

 代表的なものとしては「バンドー」「栗色と青色」「ピカソ」「一方通行」「さよならパリ」「セーヌ川」など・・・後の「アディオス・ノニーノ」の前身である「ノニーノ」もこの時期の作品です。

また椅子に座らずに、片足を台に乗せて立奏するピアソラ独特のバンドネオンの演奏の仕方をこの時期から始めたのは象徴的です。
その演奏スタイルには自分の闘うべき相手、閉鎖的になりつつあった古いタンゴ界に対する挑戦の意志が込められていました。

バンドー(Bando)
タイトルはバンドネオンのフランスでの愛称のようなもの・・・らしいです。個人的にはこの時期の作品が最もクラシック音楽の影響が強いように感じます。

ピカソ(Piacasso)
尊敬していたピカソの名前を使う許可を得るために手紙を送りましたが、残念ながら秘書からの手紙を受け取っただけでピカソ本人からの返信はなかったそうです。

一方通行(Sens unique)
奇妙なタイトルは「パリの道は一方通行が多い」ことに対するピアソラ流のジョークのようです。

栗色と青色(Marrón y Azul)
その後の作品につながるピアソラのスタイルを、この時期の作品では最も感じさせるモダンな作風。この曲のみ帰国後に結成されたブエノスアイレス8重奏団の演奏でお聴きください。

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