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母の家出


23時ぐらいにベッドに入った。寝転がって天井を眺めていると家の中の遠くの方で父と母の口論が聞こえるような気がする。バタバタとドアが閉まったり人の足音が聞こえたり硬いものを床に投げ落とすような音が続いて最後には玄関のドアがガラガラと音を立てて、その後はすっかり静かになった。少し気になったけれど静かになったから、そのまま寝入ってしまった。


朝目を覚ましてリビングに行くと、父は仕事に出ていて母はコーヒーを飲んでいる。昨日夜中にバタバタ音がしてたけれど、何かあったかと尋ねると母は当たり前のような顔でいう。


昨日、お父さんと喧嘩したの。あんまり頭にきたから家を出て行ってやろうと思って荷物と子供を連れてとにかく車に乗ろうとしたのね。だからスーツケースに着替えなんかを詰めてお姉ちゃんを起こして無理矢理引っ張って全部車に乗せて走り出したの。それでコンビニに着いて、お姉ちゃんは寝てるし、ちょっとコーヒーを買って車で飲んでると、ふとあなたのことを思い出したの。あー、忘れたー、って。コーヒーを最後まで飲んで、少し考えて、悔しいけど帰ってきたわ。晩からお父さんとは一言も口聞いてないの。夜中にうるさくしてごめんなさいね。


開いた口が塞がらなかった。こんなに的を射ていない謝罪はないんじゃないだろうか。母は小さな罪悪感から言わなくてもいいことを自分に話したのだろうけれど、絶対に墓まで持っていくべきではないかと思った。でももう知ってしまったから、何にも言わずに部屋に戻った。



その晩はなかなか寝付けなかった。何度もトイレに起きて、もう何度目かわからないときには、家族はすっかり寝静まっていた。普段母は夜中の2時ぐらいまでテレビをみているから、かなり遅い時間まで寝れていないのだと思った。やけに静かな夜で普段なら窓の下を走る車の音が聞こえるけれど、今日は一台も通らない。風の音もしない。窓の外にものが動く気配がないように思われた。何となく窓辺に寄ってカーテンをめくるといつもの風景が眼下に広がっていて、なんとなく電信柱が目に入った。その陰にもたれているような影がある。あまりに遠くて人かどうかすらわからかないが、よく目を凝らしてみると父の姿のようで、こちらを見上げている。寝室にいるはずの父がそこにいるはずはないから、一度リビングの方向に目を遣って、もう一度外に目を向けるとその姿はなかった。不安を覚えながらも見間違いだと言い聞かせてベッドに入りなおした。



また目が覚めた。喉が渇いていてリビングで水でも飲もうかと思ったが、身体が起き上がらない。何度も立ち上がろうとするが、体中が強張る以外は指先ですら動かすことが出来ない。瞬きすらかなわないが眼球だけは動くから、頭上で目の端に入るカーテンをチラとみて、目の奥に残っている父の姿を想像した。そのとき足下の廊下へつながるドアが動いた。こんな時間に家族が自分の部屋に入ってくることはない。全身に力が入るけれど、動くのは眼球ばかりで、ドアがゆっくりと開いていくのがみえる。ドアは完全に開かれて、ドアストッパーに当たって小さな音をたてた。



母は小さな音でもすぐに目を覚ますたちだから、よく夜中まで起きてゲームなどしていると怒られた。体中に力を入れてとにかく叫ぼうとするが、声が喉の奥からでてこない。喉からかすかに空気が漏れるだけだ。不意に廊下に黒い影が目に入った。それは今までみたものでもっとも遅く、ぬるりとこちらに近寄ってくる。来るな、来るな、と頭の中で叫んでみても、それは音もたてずに足下に近づいてきて、ベッドの端にあがってきた。そうしてようやく影はどうやら女だということに気が付いた。髪が長かったからそう判断したが、顔は髪に隠れてまったく見えない。



女は自分の身体を跨いで立って、身体を屈めてすこしずつ顔の方に近づいてくる。女は自分の腹の横に音をたてずに膝をついて。両手を自分の顔に近づける。心臓は早鐘のように打っていてその音だけが体中に響いている。女の手が自分の首にひやりと触れた。両手が優しく自分の首に置かれたとき、そこで女と目が合った。髪の隙間から真っ黒な目玉だけが見えた。両の手に力が入り、息が苦しくなってくるにしたがって女が顔をこちらの顔に近づけてくる。息がまったく吸えなくなって、目が充血してきているのがわかる。いま、女の顔は自分の顔の真横にある。意識が遠のいていく間際、耳元で聞こえた。






本当は忘れたんじゃないのよ。






全身に汗をかいて飛び起きた。女はいないし、ドアも開いていない。顔の汗をぬぐってすぐに立ち上がって、カーテンを開けて電信柱をみたが誰もいなかった。とにかく喉が渇きすぎて痛い。少しドキドキしながらリビングに行ったら、母が日本酒を飲みながら深夜番組をみていた。ゆっくりこちらを振り向いて、どうしたの、と声を掛けてくる。何もない、と言って水を飲んで部屋に戻った。



朝目を覚ましてリビングに行くと、父は仕事に出ていて、母は習い事に出ていて、姉がコーヒーを飲んでいる。一昨日の夜中にバタバタ音がしてたけれど、何があったか知ってる?と尋ねられた。



自分は、さぁ、と言った。



一昨日、お父さんとお母さんが喧嘩したのね。お母さんはあんまり頭にきたから家を出て行ってやろうと思って荷物と子供を連れてとにかく車に乗ろうとしたみたいで。だからスーツケースに着替えなんかを詰めて私を起こして無理矢理引っ張って全部車に乗せて走り出したの。それでコンビニに着いて、私は寝てたんだけど、お母さんがちょっとコーヒーを買って車で飲んでると、ふとあなたのことを思い出したの。あー、忘れたー、って。コーヒーを最後まで飲んで、少し考えて、悔しいけど帰ってきたみたいね。一昨日の晩からお父さんとは一言も口聞いてないんだって。



自分は、そうなんだ、といった。



あ、そうそう、あとね、お父さんとお母さんが喧嘩した理由ね、ハンバーグだって。



え。



うん、ハンバーグ。一緒に買い物に行ったときに買ったハンバーグをお母さんが全然お弁当に入れてくれないんだって。お母さん的にはいいタイミングがあるみたいなのよね。それをわざわざ何もしないくせに口出しするから頭にきちゃって。それで怒って家出したんだって。二人で車に乗ってそんなしょうもない話するから寝ちゃったのよね。




ハンバーグごときで喧嘩する夫婦、家出した際に息子を持っていくのを忘れてそれをわざわざ息子に伝える母、すべての出来事を包み隠さず伝える姉。ハンバーグで殺されかけた自分。家族というものが不思議なのか、うちの家族が不思議なのか。



(了)

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