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なぜ、大事な時ほど「大学の自治」は役に立たないのか

2/17より新潮社の有料サービスForesight に、昨年行った勅使川原真衣さんとのイベントの内容が、対談記事「能力主義はなぜ生きづらいのか」として掲載されています。

有料記事なので中身を全部は書けませんが、読みどころのうち一つをちょっとお見せすると、こんな議論を提起したりしています。

與那覇 能力主義と表裏一体なのが「評価」ですね。昔大学教員をしていて疑問だったのが、彼らは試験や査読で他人を評価するのが仕事なくせに、内心では病的なくらい「自分で評価を下す」ことを恐れているんですよ。もし判定を間違えてクレームがつき、バッシングされたらどうしよう、と。

この問題は以前、文庫版の『知性は死なない』の増補部分でも採り上げました(初出は2018年、『現代思想』誌の大学特集)。

私も昔やってたから知ってるんですが、大学教員のほとんどってビビリなんです。「え。でもSNSでオラオラ感出してる先生、多くないですか?」と思うかもしれませんが、あれはそこでしかイキれない人が、私は専門家だぞと叫べばお仲間が助太刀に来るのをアテにして素人に喧嘩売ってるだけで(しかもよく負ける)、職場では彼ら彼女らも上記のようなチキンですよ。

どうして、そうなるのか。理由は単純で、日本の大学って「責任のロンダリング装置」が多すぎるんですね。

教授会が典型ですが、大学の意思決定って基本的には「だらだら長話した後でのなんとなく全会一致」なので、宮本常一が描いた村の寄合と同じ。

そういう状況に慣れると、大学院とか出て小智恵は利くやつが集まってるので、難しい課題ほど「あくまで決めたのは『みんな』であって、私じゃない。だから私には責任ない」で乗り切る癖がついていくんですね(苦笑)。

「評価」に関していうと、たとえば入試の面接官をやって、これは入学させたらアカンという受験者に出会った。しかし、自分が「落としましょう」と言って不合格にしたら、定員に欠員が出て、自分の責任になる。さて、どうするか。

初級テクは「入学した後なかなか厳しいと思うのですが~……」のように、曖昧に言葉を濁すんですね。で、後は場の雰囲気に委ねる。落として欠員になっても、入学させて問題を起こしても、「いやいや。あのとき『みんなで』決めた結果じゃないですか」で済むから、楽ちん。

上級テクとなると凄腕で、会議の時に口では「授業について来れない子なので、落とすべきです」と断言するんですね。でも、後々まで残る書類の方には、しれっと合格を出してもおかしくない点数を記入しておくんですね。

つまり本当は自分が落としておきながら、書類上は「いやいや。私は合格もあり得る点数をつけました。それを『みんなが』話しあって落としたので、欠員が出たのは私のせいじゃないです」という形を採るわけです。研究者のくせに、他に頭使うことはないんでしょうか(笑)。

文藝春秋』の連載にも記したとおり、いつもは国からキャンパスに日の丸揚げてよと頼まれても拒否するのが「大学の自治だぜ!」とイキってた学者たちが、新型コロナウィルス禍では「対面授業やめろ」「学生を入構させるな」「サークル活動も禁止で」みたいな(法に基づかない)強権的な命令にヘコヘコ従いました。

なんでそうなったか。もう、おわかりですよね。ふだん、入試で1名欠員が出る程度の話題でも「私が決めたわけではない」で責任回避に必死な人たちが、自分の責任でコロナにどう向きあうかなんて、考えられるわけないんですね。

大学ってこういう無責任な男女のためのプロミスド・ランドなので、彼ら彼女らが自分をごまかす機会も(SNSにプラスして)設けられているんです。何を隠そう、「授業」ってそれなんですね。

教授会は「みんな」で決める全会一致でも、授業の教室では「俺様」がすべて。何をどう教えるかも、どんな答えを「正解」にするかも、ぜんぶ一人で決めていい。授業の場に限ってなら、教授会では寄合の村人やってる人でも、シュミット的な主権者になれる。

なのでまちがいなく去年からは、全国の大学の教室に「私は個人的には反対だったッ。しかし教授会の他の連中のせいで不本意ながらキャンパスを閉じざるを得なくなりっ……うおおおお元はと言えばアベガー!」みたいな説法を垂れる面々が大量発生してるんですね(失笑)。

丸山眞男が貶した「亜インテリ」の代表、
鮫島伝次郎さんです。
コロナが示したとおり、インテリも同じでしたが。
中川淳一郎氏の記事もご参照を

ですので、こうした「無責任の体系」にどっぷり漬かった界隈から発される主張を目にしたら、テーマを問わずひとまず距離をとりましょう。だって、情勢が変わったら逃げ出す人たち(=単なる言い逃げ屋)を信じたら、損するのは国民ですから。これが、ポストコロナのメディアリテラシー。

しかし、有事のオピニオンのソースとして「とりあえず大学は無視」をニューノーマルにするのはよいとしても、どうすれば、そもそも個人の判断が過剰な自己責任論に陥らずに尊重される組織を作れるだろうか? この問いこそが、大学の自治なる「欠陥商品」をコロナでリコールした今、みんなで考えるべきものだと思っています。

今回の対談にも、そのヒントはいくつも埋め込まれていると感じています。多くの方にご購読いただければ幸いです!

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