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「悪」は滅ぼさず薄めるしかない。

明日発売となる『Wedge』誌の1月号、「分断と対立」特集に「日本の分断は欧米と違う 今こそ必要な ”安心感” の復元」として登場しています。見本誌をいただいたので、先んじてPR。

同誌のオンライン版には従来からお世話になっており、Zoom取材で足立倫行さんに『平成史』を採り上げていただいたのは、コロナ自粛下での数少ない良い思い出でした。紙版は、むかし東海地方で働いていた時期があるので、たま~に新幹線のグリーン席を利用する際お世話になっていましたが、登壇するのは初かもしれません。

私の記事のメッセージはタイトルの通りで、「分断は問題。対話と共生が必要」と言いながら「欧米ではもう常識。やっていないのは日本だけ!」みたいな態度であれこれゴリ押しし、かえって分断を作り出している人たちのどこが間違っているのかも考察しています。お楽しみください。

一方、文字数の関係で割愛したのですが、取材の際に伺った同誌の「地方自治」特集(本年4月号)のエピソードは、たいへん興味深いものでした。

最近、ロトクラシー(くじ引き民主主義)という用語をぽつぽつ目にします。要は世界のどこでも投票による民主主義が行き詰まり、かえって特定の候補者(世襲の人、知名度が高い人、振り切れちゃった思想の人…)しか当選できなくなってきたので、むしろくじ引きの方が多様性を確保できそうに見えてきたわけ。

もちろん、さらなる無責任政治になるだけという批判もあるのですが、さすがに議員をくじで選ぶのではなく、自治体の職員との協議会に参加する住民をくじで選んでみたところ、日本でも意外な成果が見られたと言います。

ふだん、窓口に自ら足を運んで市政への要望を持ち込む住民の人って、どうしても「不満を抱えて怒っている人」が多くなりますよね。だから市役所の職員さんが、内心では地元の住民を「怖がっている」みたいな状況は、よく生まれがち。

だけど協議会の参加者をくじ引きで選ぶと、そうではないタイプの人がいっぱい入る。賛否を呼ぶ争点でも、職員さんの側が丁寧に説明すれば、落ち着いた議論ができる。そのことで双方に信頼感が生まれ、自信がついてくるというのです。

もちろんくじ引きなので、職員に憤懣をぶつけるタイプの人が選ばれることもあるし、なかには「クレーマー」と形容されてもやむを得ない人もいるかもしれない。でも、そういう人がやってきたら協議会が空中分解するかというと、そうでもないんですね。

自分だけの時は一方的に本人の感情をまくし立ててしまう人でも、周りに同じ立場の人がいて、お互いになだめたり突っ込んだりしあいながら話していると、だんだんと調和が取れてくる。最初はとても折りあえないくらい「極端」な主張だった人でも、みんなで話すうちに中和されて、それなりに穏当な妥協点が見つかってゆくといいます。

(これは、斎藤環さんとの対談で伺った「オープンダイアローグ」のメカニズムとも、重なる面がありそうです)。

この含意は、結構大きい。自分の立場からすると、絶対容認できないと思える「悪い」考えや思想の持ち主って、世の中には必ずいるわけですよね。もちろん私にもいます。歴史学者とか(笑)。

でもじゃあ、(自分の考えでは)社会に害をなしているそうした「悪」をどうするのか。物理的には「滅ぼす」という選択肢はあるんですよね。武器を持って襲って殺すとか、収容所に入れて再教育が終わるまで出て来れなくするとかで、実際にそう処理している地域も世界にはあります。

だけど、上記でもわかるように、悪を滅ぼして「この世からなくせる」しくみを作ろうとすると、いつしかそのしくみ自体が、かつて標的としていた悪よりもずっと凶暴な「巨悪」に育ってしまう。

だから、悪は「なくそう」としてはいけない。むしろ(自分の考えでは)悪ではないものとの接点を作ることで、薄めて、希釈して、残ってはいるけど「害はなさない」状態に持っていくしかない。

そうした発想の転換が、本当の意味で「分断を乗りこえる」のには必要なんだと思います。

P.S.
ご存じの方は連想されたと思いますが、末尾で書いていることはリスク社会論の内容と同じで、2011年3月の福島第一原発事故の後にはよく参照されました(私もした)。
逆に、メルトダウンに比べればはるかに卑小な問題が「悪は滅ぼそう思考」のために分断を招く現在の日本は、2010年代を通じていかに議論の水準が下がっていったかを如実に示しています。

追記(12月22日)
Wedge Online に寄稿の全文が掲載されました。

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