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ユウェナリス、ボエティウス、そして古典教育

一昨夜、本を読んでいて、こんな一文に出会いました。(日本語訳、ちょっと自信ありません。間違っていたら教えてください。)

… if you had set out on the path of this life with empty pockets, you would whistle your way past any highwayman,
もし何も持たずにこの人生という旅を始めていたなら、あなたは盗賊の前を口笛を吹いて通り過ぎることができたでしょう。

日本語訳は筆者

注釈によるとこれには元ネタがあって、それは帝政ローマ時代の風刺詩人、ユウェナリス(AD60-128)の作品の一節ということでした。

Cantabit vacuus coram latrone viator
空っぽの旅人は山賊の前で歌うだろう

Wikipedia

物を所有することで生まれる不自由さ、あるいは物を所有しているつもりが逆に物に所有されている人の愚かさを指摘するものです。
次の諺(ことわざ)に少し似ています。

銀をたくさん持っている者は仕合せだろう。
麦をたくさん持っている者は嬉しいだろう。
だが、何も持っていない者は眠れるだろう。

『ライフ人間世界史13 メソポタミア』より

私はユウェナリスの名前に記憶がなかったのですが、ウィキペディアを見て(私、ヘビーユーザー過ぎますよね...)、彼がかの有名な格言、「健全な精神は健全な肉体に宿る」の作者だと気付きました。この言葉自体は子供の頃に『世界の名言・格言辞典』なる本で覚えていたのに、人名の記憶はスッポリ抜け落ちていたのですね。

さて、上記の「空っぽの旅人は~」と「健全な精神は~」は共にユウェナリスの『風刺詩集』第10篇の中に登場する言葉です。
この詩の訳を読めば、後者を「身体が健全でなければ健全な精神は得られない」とする解釈がおそらくは誤りであるということが分かります。

以下、ウィキペディアからの引用です。

『風刺詩集』第10編は、人々が神々に願う欲望を一つ一つ挙げ、戒めている詩である。

キケロのような才能を求める者は、彼の非業の最期を思い起こしてみればいいとか、アレクサンドロス3世は生前は広大な領土に満足出来なかったが、死んだら棺桶一つで満足している、などと皮肉り、それでも何かを願いたいというなら、「健全な精神が健全な身体の中にありますように、と願われるべきである」と言っている。

アレクサンドロス3世のくだりはプーチンに言って差し上げたいですね。

そして、詩の最後はこんな風に締めくくられるのだそうです。

……健全な精神が健全な身体の中にありますように、
と願われるべきなのだ。
強い心を、死を怖れない心を願え。
死の間際にあって後悔のない心を。
どんな苦しみにも折れない心を。
怒りにも、欲望にも打ち克てる心を。
欲望の限りを尽くしたサルダナパール王よりも、
12の試練を乗り越えたヘラクレスを良しとする心を。
君たちの中にもそのような良い心があるのだ。
そしてそれは、必ずや良い人生へと導いてくれるだろう。

『風刺詩集』第10篇356-64行 / Wikipediaより

虚飾や名声にまどわされず、どんな困難にも屈しない強靭で独立した精神を保つこと。
約1900年前の詩ですが、この詩一つあれば他にはどんな人生哲学の本もいらない気がします。


* * *


さて、冒頭の私が読んでいた本というのは、ボエティウスという古代ローマ末期の哲学者・政治家が書いた『哲学の慰め』という本です。
彼は一体どのような状況でユウェナリスを引用したのでしょうか。

480年にローマの貴族の家に生まれたボエティウスは7歳で孤児となりました。しかし、同じローマの名門貴族の養子となり、そこで最高レベルの教育を受け、政治家になります。有能な彼は順調に出世し、ついには西ローマ帝国の執政官にまで上り詰めます。しかし、陰謀の犠牲となり、反逆の罪で525年に処刑されました。
『哲学の慰め』はこの有罪宣告の後、死刑執行を待つ間に書かれたものです。

道徳的な政治家として、また真摯な学者として生きてきた自分になぜ運命はこのような酷い仕打ちをするのか--そう嘆き悲しむボエティウスの前に「哲学」が女神の姿で現れ、ゼノンやプラトンを思い出すよう諭します。彼女、Philosophyとの対話を通し、ボエティウスは自分の心を癒していくのです。

...ここで告白すると実はまだ半分ほどしか読めていないのですけれどね。
獄中でユウェナリスの詩を思い返すボエティウスの心境を想像し、心が動かされたので記事にしておきたいと思いました。
昔の刑罰というのは現代では考えられないような残虐なものが多くありました。ボエティウスも拷問の末、こん棒で撲殺されました。その時代の人なのだから、当然彼は死刑がそのように惨いものであることを知っていたでしょう。そういう結末を自分が迎えることを知った上で、理不尽さへの恨みや悲しみから心を思索によって解放する作業を続けたのです。肉体の自由は奪われても精神の自由さだけはなくすまいとした彼の強さに感銘を覚えます。


* * *


さて、ここからはちょっと別のお話を。

件の「健全な精神は健全な肉体に宿る」の原文はラテン語です。

Mens sana in corpore sano.

mens = mind (精神)
sana, sano = healthy (健全な) 
corpore = body (身体)

(ちなみにスポーツ・メーカー、アシックスの社名は、これの単語を一つだけ変えた"Anima Sana In Corpore Sano"の頭文字から付けられたんだそうです。"anima"は「精神、魂」なので文の意味は同じです。)


英語の"mind"にはラテン語"mens"の面影が残っていますね。形容詞の"mental(精神の)"にはそれがより顕著です。
"sana"も英語の"sane(正気の、分別のある)"という、まあまあ似た意味の単語として残っています。
最後の"corpore"は英語にはラテン語の名残はありませんが、イタリア語やスペイン語ではそれぞれ、"corpo"(伊)、"cuerpo"(西)という具合にバッチリ残っています。

ユウェナリスの詩に出てきた形容詞"vacuus(空っぽの、真空の)"に至っては、名詞形は"vacuum"で、これは英語にそのまま残っています。バキューム・カーのバキュームですね。

こうして見ると、ヨーロッパ人にとってのラテン語は日本人にとっての古文・漢文に相当するものと言えるのではないでしょうか。
比較ついでに、イギリスでのラテン語の教育事情を少し調べてみました。

2021年のBritish Councilの調査によると、イギリスの公立中学のわずか2.7%でしかラテン語が教えられていないのに対し、私立中学では49%の学校でラテン語授業が行われているのだそうです。現状、ほぼエリート層限定の教養科目となっていることが分かります。
この差を是正しようと政府がお金を投入してラテン語を公立中学でも選択科目に取り入れるプランを推進していくことになったそうですが、どうなるでしょうか。公立の学校では生徒側も就職に直結する実学志向が強いのではないかと想像します。
私の子は公立の小学校に通っていますが、中学校に上がって機会があればラテン語を味見ぐらいはして欲しいと思っています。古典を原文で読めるだなんて素敵な能力だと思うので。かく言う私は学生時代、全然勉強しなかったので、ラテン語どころか日本の古文も漢文も全滅なんですけどね。

そう言えば、20年ほど前に旅行中に出会ったスイス人の医学生の男の子が、ラテン語を学校で習ったと話していました。やっぱりお金持ちだったのでしょうか。…そもそもベルン在住で医学生だなんて、いかにもリッチそうではありますが。

日本でも最近は古文・漢文不要論というのが持ち上がっているそうですが、古典教育というのは短期間では目に見える利益が出ないかもしれないけれど、長い目で見ればかけがえのない恩恵を学ぶ本人にも、また国全体にももたらすものの一つではないかと思います。しかし、それを削らざるを得ないというのは、それはつまり、そんな悠長なことを言っていられる余裕が今の日本にはないということを示しているのでしょうね。



"The Consolation of Philosophy"
written by Boethius / translated by Victor Watts 


ありがたくいただきます。