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ロマンチックな魂

昨日、Kusabueさんの俳句noteで「生身魂(いきみたま)」という風習を知りました。

生身魂というのは、その年に死者の出なかった家庭がおめでたいお盆、生盆として、健在の高齢の父母(生きた御魂)に感謝する行事で、死者を敬う盂蘭盆と明確に区別するために、生臭ものを食べてお祝いをするのだそうです。古くは室町時代にまで遡り、現在でも行われている地域もあるということです。

これを知り、私の頭にぱっと浮かんだのが「七歳までは神のうち」という言葉でした。

あの世に片足を突っ込んだ老人とこの世にまだ片足しか乗っていない乳幼児--医学の発達していなかった時代には両者は死に極めて近く、この世とあの世の中間地点にいるような存在と考えられていたことを窺わせ、まるで対を成す言葉であるかのように思えたのです。(もっとも、後者を子供は神のものであるという昔の人の心性を表した言葉であるとした柳田國男の解釈は誤りだという学者が今は多いようですが。)

生と死の境界はもしかすると曖昧なのかもしれない--虹の色ごとの境界がぼんやりしているように。
真ん中の青年・壮年期は力強く鮮やかな色だけれど、両端に近づくにつれ、隣の色と混じり合い、切れ目は判然としない--。

今風の言葉を使えば、「生死はスペクトラム」というイメージでしょうか。
昨今のトレンドワードとしてのスペクトラムというのは、変化がグラデーションになっていて、はっきりした境界がないという状態を指していて、自閉症スペクトラム障害で有名になった言葉だと思います。最近では「ジェンダーはスペクトラム」なんて言う人もいます。生物学的な話は別として、体感的には的を射た表現だと思います。


話は戻りますが、実際には生と死の境は明確です。ある日、呼吸が止まって、心臓が止まって、やがて体が腐敗を始めて...。
でも空想としてなら、スペクトラム的な生死の在り方というのは、なかなかロマンチックでいいなと思うのです。「生」が唐突に終わって「死」が始まるのではなくて、その前から少しずつ両者が混じり合った世界に入り込んでいると考えるのは。
死んだときに、「あれ、ここはどこ?」と途方にくれるのではなく、「なんだ、ここは見覚えがある。気付かなかったが、少し前からこちらに足を踏み入れていたのだなぁ」と小さく笑えるような感じだと素敵だなと思うんですが、どうでしょうか?(ロマンチックの定義を改めろと苦情が出そうですね。)


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参考"七つ前は神のうち"は本当か:日本幼児史考 by 柴田純



ありがたくいただきます。