『トラウマにふれる−心的外傷の身体論的転回』宮地尚子

ベッセル・ヴァン・デア・コークの『身体はトラウマを記録する』を呼んだあとだったので、タイトルにあるほどの「身体論的転回」を実感することはなかったけど、これは、特に前半はいろいろな人に読んでほしい本だと思ったし、自分のなかに済むハゲ散らかしたおっさん(を抱えるまごうことなき自分)に付ける薬としては必要な本だったと思う。

本書で繰り返し語られるのは、トラウマ的な体験をした人が、自らの身体に対してどのように違和感を感じ、その結果どういう症状がでるのかということ。

性暴力とそれが与えるトラウマの重篤さについての記述が多い。

性暴力の場合は、他のトラウマ的事象(災害や事故、事件の目撃とか)と異なって、自分の身体がその事件現場になる。その事件現場にいつまでも閉じ込められたような感覚になる。自分の身体が常に居心地の悪い場所となったとき、そこに住まう心はどうなるか?/そして、そういう身体を持つ人、PTSDを抱える人に治療として向き合う時にもジェンダーの観点が非常に重要であるという。それは、治療者のジェンダー観が、その治療法に投影されてしまうから。

わたしにとって一番興味深かったのは、男性の性被害や男性の解離性同一性障害について、ジェンダーの観点から書いている箇所(本書4章)。

これまで、いくつかのジェンダーの本を読むなかでいわゆる「男性学」、「男もつらいよ」という論に出会ってきたのだけど、どうしてもそれらの男性学は女性学がベースにあるという感じがしていた。

例えば『フェミニズム現象学』で言及されていた「液体を制御できないことの女々しさ(男性が泣くということ)」というのは、やはり、女性蔑視が、女性を下位のものとする構造があって、結局の所、男性のなかのミソジニーを指摘するという論旨だった。

『トラウマにふれる』の摂食障害に関する節では、虐待などによってトラウマを抱える人が摂食障害や自傷行為に依存したり、うつ病を発症したりすることがあるけど、こういう表出の仕方は女性に多いということが書かれている。

男性の場合は、エクストリームスポーツのようなもの、危険を伴う冒険や登山という行為に依存する場合があるみたいだけど、それは病理として認識されにくいという。確かに、アルコールやギャンブル、セックス、ドラッグも、一定のラインを超えると依存症として病理になるけど、正常範囲の行動とされてしまいやすいのかもしれない。男性は特に。

ケア労働の理論では、女性がケアを担わされる傾向にある(しかも安価で)。でもこういう精神的な病理の事例になると、女性のほうがケアされやすいのかもしれない。(ケアは担うのも、施されるのも女性?相対的に弱いから?)

だから、ここに実は男性の辛さがあるのではないかと思いました。ケアが必要なトラウマを負ってさえも、マッチョな昇華の仕方に依存しがちなために、ケアの対象として認識されにくい、というような。

とはいえ、危険な登山であれ過食嘔吐であれ、筆者が言うように

生きるための必死の、その日その日のエネルギーをともし続けるためのクリエイティブな行為だとほんのわずかでも思えるとしたら、自分の身体の調律を少しでも呼び戻すきっかけになるかもしれない。


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