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「なんか好き」ってだけでもいいじゃんね?【死にたい夜に効く話.23冊目】『銀河鉄道の夜』宮澤賢治著

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を映画館で観た日、家に帰って速攻爆睡した。

実はこれって自分的には珍しい。
映画でもアニメでも小説でも、衝撃を受けたり、感動した作品に出会った時、家に帰ったらまず、ネット検索を始めるから。

インタビュー記事や、番宣の動画を探したり、ネットのあちこちに書き込まれているコメントをひたすら読み漁ったり、関連書籍を調べたり…。

感動した作品であればあるほど、その後の調べる時間はとてつもなく長くなる。

何がしたいのかというと、この、自分が感じた感動を、感覚を、言語化して説明できる段階にもっていきたいのだ。曖昧なものを、形あるものとして。

まぁ、そういう「遊び」だ。

ただ、たまにそれを一切やらない時がある。その作品にどれだけ感動してもだ。
これは今は調べてはいけない。言語化しないで、とりあえず今はそのままにしておこう。
曖昧なままでとっておきたい。そう思う作品がたまに現れる。

一番最近だと、それは「君たちはどう生きるか」だった。(今は無性に観直して、参考文献を漁りたくて仕方ないけど)

『銀河鉄道の夜』もそんな作品の一つなのだ。

少年ジョバンニは祭りの日の夜、気がつくと見知らぬ列車に乗っていた。友人のカンパネルラと一緒に、不思議な人々と出会い、不思議な光景を目の当たりにする。

一つ一つの情景がどうしようもなく美しく、ジョバンニのかすかな感情の揺れ動きがとてもリアルだ。

自分は『銀河鉄道の夜』を頭に浮かべようとすると、なぜか、車内の様子でも、車窓から見える景色でもなくて、瓶に詰まった、綺麗なガラス玉が頭に浮かんでくる。(そんなシーンはない)   

なぜだろうと考えてみると、思い出した。

小さい頃、ビー玉やおはじきのような、ガラス玉が好きだった。
光に透かして眺めたり、床にコロコロ転がしてみたり。それらはいつも、透明の瓶の中にしまっていた。
何が好きだったのかはわからない。多分、「なんか好き」なだけだったんだろう。

『銀河鉄道の夜』は、わたしの中で、「なんか好き」な物語として、頭の中で大事にしまわれているのかもしれない。


《参考文献》
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』新潮社、1989年

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