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石垣が外れる


大切なことは目に見えないんだよ、と小さな王子が言ったから(正確には言ったのはキツネ)、なんかみんなそれがすごく大事なことのように思っているが、もちろん目に見える大切なこともたくさんあるわけで、こういう過剰な強度を持つ言葉はむしろ警戒をしなければいけないと思う。
(なんて書くと貴様は星の王子が嫌いなのかと言われそうだが、十年ほど前、池澤夏樹訳を皮切りにザクザク出た新訳を片っ端から買って読み比べたくらいには好きな話です。)

『星の王子さま』
サン=テグジュペリ/池澤夏樹
集英社

(結果、昔からの内藤訳が一番ステキ、という微妙な結果になっているのですが 笑)

『星の王子さま』
サン=テグジュペリ/内藤 濯
岩波書店

ただ「大切なことは目に見えないんだよ」なんていうわかりやすすぎる一言に還元されるような単純な話ではないのに、キャッチコピー的にこの言葉がひとり歩きすると、この言葉をとっかかりにしてはじめてこの本に触れる人もでてくる。そこに引っ張られて読めばそういう着地点に誘導されてしまうかもしれない。
さて、この本はどういうことが書かれていましたか?
はい、小さな王子の物語は、大切なことは目に見えないんだよ、ということを教えてくれる本です!
はい正解・・・なわけあるかい(笑)
もちろん「大切なことは一言では言えない」からサン=テグジュペリもこれだけの分量の本にしたのである。勝手に集約してしまってはいけない。

ではあるが。
本を読んで人生変わる、なんていう経験はそうそうはないかもしれないが、人生変わらないまでも、言葉による衝撃や考えもしなかった価値観に頭を殴られる、という経験をいくつも重ねて右往左往しながら生きていくのが人間というものである。
「大切なことは一言では言えない」はずなのに、けっこう一言で航路を捻じ曲げてくれるような強度のある言葉もあって、けっこう人生のあの点この点で、思い出す一言、というのはたしかにあるにはあるのだった。

真っ先に思い出すのは坂口安吾の「風流」というエッセイ。

『散る日本』
坂口安吾
角川文庫

「 着のみ着のまま生き残った人々が穴居生活をはじめる。(略)しかし、ボロボロのシャツ一枚で穴から首をだした一人は、自分の穴の出入り口の横ッチョへ植えつけた朝顔の大輪が咲いたのを見てニッコリする。」

戦争でみじめな生活を強制されても、住む町が燃えても、強制された運命の範囲内で安心を見いだしてしまう、それが「風流」である。え?

「何がどうあろうと仕方なしと諦めて、与えられたワク内でツギハギだらけの生活も気持ちだけで間に合い、運を人まかせにしてしまった悲しく暗い日本庶民。ホラ穴生活に逆行しても、風流だけは変わりなくたのしめる日本の庶民。」

・・・そりゃぁ法隆寺なんか燃やして必要ならば停車場にでもしてしまえ、と言っちゃうくらいの人である。
でもそういうのは多分に安吾一流の壮語的な部分もあるから、こちらもはいはいと聞き流すところもあるのだが、この風流についての話は虚を突かれた。
読んだのは高校生くらいだっただろうか。おそらくまだ純粋に日本的風流、ということの価値を疑いもしていなかっただろう。
焼け跡に咲く朝顔、いいじゃないか、と、それを見れば僕も心が和んでしまうかもしれない。
しかし坂口安吾は強制を甘受する心境を風流というのだと、空疎な想像上の朝顔を叩き潰す。
なんとまぁ。
おお、なんとまぁ。

風流という、日本人が堅固に信じる巨城にさえ、穿てる石垣ひとつそこには存在するんだ。
そういう視点を示されたことに高校生の僕は驚いたのである。

・・・・・・

細かく数えていけば、そりゃぁ人生の各所各所で、頭をぶん殴られた言葉はもっとたくさん存在するだろう。

地味めなところでは、斎藤憐の戯曲『クスコ』で、王の求愛を拒み、王である私以上に優れた者がいるのかとなじられたクスコが「しかし人は優れたものを愛するわけではありません」と切り返す。
今考えれば別に何ていうこともないセリフに思えるのだが、恋愛経験も貧しい高校生の僕には、なんだか恋愛の秘密を垣間見たような(笑)不思議な衝撃を受けた記憶がある。
そうなのだ。
なんでやねん、みたいな恋を重ねて人は成長する。
そうだった気がする。
うん、そうだった気がする。

『クスコ』
齋藤憐
而立書房

(とまぁ、今のはどうでもいい余談に近い話なのであるが。)

・・・・・・

しかし、そんな打撲痕の数々をすっかり忘れさせてしまうくらいに、鮮やかに僕の脚をすくってみせたのが内澤旬子の『世界屠畜紀行』の中の一文だった。

『世界屠畜紀行』
内澤 旬子
解放出版社

世界の屠畜事情をルポタージュする名著だが、そのなかで屠畜に携わる人々が差別を受けてきた国とそうではない国を考察し、やはり仏教的な影響の大きい日本だからどうしても生き物の命を奪う仕事に対する抵抗感が根強いのか、という話になり、そこで次の言葉が語られる。

(動物を殺すのが)かわいそうという気持ちじたいを変えていかないと差別はなくならない(と考える人もいる。)」

これは本当に地動説的衝撃度の言葉だった。
幼い頃から「いのちを大切に」というのは、疑いの1mmも差し挟む余地なく、当たり前と思わされてきた、鉄板の真理のはずだった。
だが人に限らず動物は他の動植物の命を奪わなくては生きていけない。というか、他の生物の命を食って生命活動を持続していくことを、「生きる」というのである。
ところが一方で命を大切にするべきであるという不動の道徳律があり、生体維持には他の生物の命を奪わねばならないということと著しく矛盾したままで、結果としてそういう仕事(屠畜)を引き受ける人々に一手にその矛盾を押し付ける形でそのまま放置してきた。

動物殺しちゃいけないんだぜ。
  ↓
でも殺さなきゃ生きていけないしな。
  ↓
いや、あの牛や豚を屠ってるやつらは人間じゃないんだもん。
  ↓
そうだ、「我々」が殺した動物ではない!

・・・理屈の崩壊するところに差別は作られ、そしてまた差別が理屈を捻じ曲げる。

そんな屁理屈を捏造し、その業務に携わる人々が差別される構造を維持したままにする。
そこまでして「生き物の命を奪うことはかわいそうなことだ」という道徳項は死守せねばならんものなのか。
(もちろん食べもせず無用に命を奪うことと食べるために命を奪うことはきちんと区別されねばならないが、食べる用途の殺生にまで「かわいそう」という感情が漏れともなってしまうことは、心情的にいたしかたないと思えてしまう・・・ということについての話である。念のため)

坂口安吾の「風流」と同じ、これまた難攻不落のはずの巨城に、石垣一個の穴を穿ってしまったのである。
もちろん風流なんてくそくらえ、と言ってしまえるほどには、命が大事なんてくそくらえ、とは簡単に言える話ではない。そんな簡単じゃない。
しかし、この石垣一個が毀たれた衝撃は、僕にはとても大きい。
いや、本当に大きい。

(シミルボン 2016.10)

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