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【762】湯婆婆文法(仮)とボワロー

『千と千尋の神隠し』くらいならネタバレしてもよかろうと思って言うなら、同作において異世界に迷い込んだ千尋は親を豚に変えられてしまい、人間の親を取り戻すために「油屋」で働くことになります。油屋のボスは湯婆婆であり、彼女の登場シーンはなかなか印象的です。

先だって「ここで働かせてください」とだけ言うように諭されていた千尋は、どうにか湯婆婆に受け入れてもらえますが、契約に際して湯婆婆は千尋の名前を奪うのですね。次のセリフは実に有名です。

千尋というのかい? 贅沢な名だね。今からお前の名前は千だ。いいかい、千だよ。分かったら返事をするんだ、千!

千と千尋の神隠し

これが源氏名の隠喩だ、とか、名前を忘れてはいけないとされることが作品において重要だ、とか色々な読解は(無根拠で論理性もないものが大半であるとはいえ)あちこちに転がっているのでそちらを見ていただくことにしますが、滑稽なのは、この湯婆婆の発言の構造が(本来の文脈とは異なるかたちで)転用される例です。「何やら立派な名前を持っているが、実態はショボく、もっと適切な名前がある」と言うときに使われるのですね。もとの文脈とは違いますが、そのように使われるのです。

たとえば、

「非常勤講師というのかい? 贅沢な名だね。今からお前の名前はバイトだ。いいかい、バイトだよ。分かったら返事をするんだ、バイト!」

というものがあります。

非常勤講師というのはもちろんバイトです。パートタイムジョブです。特殊な能力や経歴(や、ときに明確な資格・免許)がないとできないバイトですし、それゆえ(特に大学文化で言えば「教歴」がつくという点で)特殊な効果をたらしうるのですが、それはコンビニでも家庭教師でも喫茶店でも同じです。バイトはバイトです。私も家庭教師とか講師とかやってきましたが、それはたまたまそうできる能力や条件があったからで、コンビニとか喫茶店は無理です。大量の商品の処理を覚えられるはずもありませんし、不注意なので食器を落としまくることでしょう。できる人には敬意が湧きます。

自己紹介とかに「どこそこで非常勤講師をしていて……」というのは、まあわかりやすく言えば「アルバイトです」ということですし、非常勤のみで生計を立てている人が深刻な犯罪を犯して逮捕されれば「容疑者は都内在住のアルバイト、〇山××です」などと報道されても問題ないでしょう。それは単に事実だからです。

とはいえこの言い方が実に巧妙なのは、特に非常勤講師を専業でやっている人は「バイト」と呼ばれたらイヤな顔をするだろうな、という想定が立つということです。というより、そういう意識を前提してわざわざこの湯婆婆文法を使って揶揄しているのです。

だいたい非常勤をやっているのは大学にいつづけた人間ですから、権威主義に決まっていますし(それ自体は悪いことではありません)、褒められ崇められて気を良くする生物です。そうした良い感じの、カッコいい・偉い要素が、「バイト」と言った途端に台無しになる。「バイト」であるのは事実であり、「非常勤講師」はどうしたって「バイト」に内包されるので、「バイト」と言うのは完全に正しいのですが、この湯婆婆文法(?)に乗せて「バイト」と言われると何かを損壊された気になる人もいる。

が、「バイト」言われてイヤな顔をするとすれば、その非常勤講師が「バイト」という言葉ないしは概念に通常包摂される具体的な仕事を嫌ったり蔑視したりしているということですし、しかも自身はそれまで非常勤講師が「バイト」であることを意識していなかった(ないしその事実を直視してこなかった)、ことによっては剰え寧ろ自らを「大学教員」だと思いなして鼻高々になっていたということを明かすわけで、実に滑稽だということです(なお、大学教員も言ってしまえば「サラリーマン」なのですが、そう言われてプンプン怒っている人を見たこととがあります)。

知人は性格が悪いので、イヤな人が非常勤講師をやっていると自己紹介してきたら「アルバイトをなさっているんですね!」と言って煽るそうですが、それが煽りとして機能するということは、あけすけな事実を摘示する湯婆婆文法は優れたperformativeな効果を持っているというなりゆきです。

最近では「非常勤講師」を「特殊軍事作戦」なんかに代えてもよいのかもしれませんね。

これが「贅沢な名」であるかどうかはともかく、湯婆婆文法とでも言うべきものは、ご立派な名前がついてはいるが、実態がしょうもないものをそのしょうもなさに釣り合った名で呼んでみることで、何かしらの幻影から解き放たれたり、あるいは幻影を愛してしまっている人を笑ったりすることができる、そういう効果を持つものです。

これはもちろん、優位にあるはずの事実を直截に摘示するものではなく、ある別の捉え方を、しかも「贅沢な名」によって隠されがちな捉え方を摘示するもので、それゆえに面白い効果を持っています。


実にフランスの修辞学者ボワローを彷彿とさせる話です。

ボワローというと別にその人の思想が具体的に知られているわけではなく、寧ろ仏文学に少しでも触れたことのある方なら、「猫を猫と呼ぶ(appeler un chat un chat)」という言葉だけが(文脈なしに)記憶にとどまっている、ということが多いでしょう。「はっきりと本来の事実を摘示し、本来あるべき名前と事物の対応を取り戻す」くらいの意味に理解されることが多いでしょう。

『風刺詩』の該当箇所はだいたい、次のようなものです。

私は田舎者で粗野で、無作法な魂の持ち主だ
私は何も名付けることができない、そのものの名によるのでなければ
私は猫を猫と呼ぶ(…)

N.ボワロー『風刺詩』

もちろんこれを「はっきりと本来の事実を摘示し、本来あるべき名前と事物の対応を取り戻す」くらいの意味に理解しようとするなら、それほど単純な頭の使い方も珍しいわけです。そもそもこれが詩という形式を取って、見かけ上謙ってなされるパリの社交界に対する皮肉である、ということを考えると、「お前は『猫を猫と呼』んでいるのかよ」「『田舎者』が韻を踏みつつ詩を書けるわけねえだろ」「ボワローさんよ、あんたもパリジャンだろ」と言われても仕方ないわけで、つまり事柄をそのままに摘示するのではない巧妙な言語であり、その点こそが滑稽で面白いところです。

「私は猫を猫と呼ぶ」と言っている本人こそが詩という形式で極めて迂遠な風刺を行うわけですから、そこで(名と事物の間の単純な)記号作用は既に壊乱されています。本来の事実を摘示しよう、みたいなマニフェストでないということは、詩という形式や嘘くさい謙遜から明らかだということです。

私が「ゴミをゴミと呼ぶ」とか、「詐欺を詐欺と呼ぶ」と言えば、それはもちろんクソみたいな商品やクソみたいな市場の文化を弾劾するためにそう言うわけで、本来の事実を摘示するというつもりはなく、ある側面、ある観点にテコ入れしようとしているわけです。


実に「はっきりと何かを言う」という素振り、つまりあけすけな率直さを装った態度は、事実を摘示するという形式的な効果を持つというよりも、その振る舞い自体によってその「表面」が隠す何かを暴こうという際めて積極的な態度であり、ときに攻撃や揶揄を含みます。

実に真理(a-letheia)は忘却状態(letheia)の否定(a-)だ、とはよく言われますが、それは何かしら現状の否定、覆われ隠された状態の否定を意味する、ということであり、ということは中立化でもなんでもなく、無垢ではなく、なにかしらの積極的な行為として責任を負う、ということです。