【28】書くのは、他者に伝えるため(だけではない)(野村美月「文学少女」シリーズへのわずかな言及)

「当たり前のことを当たり前に示すことは尊い」ということは私が常々感じていることです。別に思想史という分野に内在的なことではないでしょう。……

当たり前は当たり前であるがゆえに見過ごされがちですし、大切なことは手を変え品を変え示されないと腑に落ちないことが多いからです。

保育園や幼稚園で習う道徳、つまり「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」などの教えに代表されるいくつかの格率を、世の人々全員がきちんと守っていれば、それだけで立派な大人になれるでしょう。それで立派になれないというのは、ほんとうは社会のほうがおかしいのです。

私が書いて記事にしている内容も、もちろん当たり前のことばかりですし、当たり前でない作品や観点を持ち込んでいるにしても、それは当たり前の内容を少し別の仕方で書いているに過ぎないのです。その示し方に関しても、私は一度も奇を衒ったつもりはなく、これからも奇を衒うつもりはありません。ただ単に複数の観点から・複数の表現で当たり前を示すこと、これが重要なのだと考えています。

決められたお題目を繰り返していても、なかなか届きにくい。
であれば、同じ内容であるかもしれないけれども、その内容を別の観点から変奏することで、
ある人の心には刺さる、ある人の気持ちには訴求力を持つような表現が可能になるからです。


さて、私が今回言及したい「当たり前」は、書くことには他者に内容を伝える以上の効果があるということです。
もちろん「そんなの当たり前だよ」という声がすぐに聞こえてきそうです。
考えてみれば当然のことで、そんなこと言われるまでもなくわかってるよ、という向きもあるでしょう。
この点つまり変奏して言い直すなら、言語の目的ないしは終極というものがメッセージの伝達のみに存するのではなくて、或る種の行為を遂行することにあるのだ、行為を遂行することにもあるのだ、という考えは哲学でもあるいは少し変わったかたちで、文芸批評などでも、盛んに言われてきた通りです。

哲学では、例えばオースティンの言語行為論などはその代表的な例と言えるでしょう。
もちろんオースティンが問題にしているのは、主に会話の場面ですが、彼の議論は書くことにも適用されうるものです。公的機関からの召喚状を書くということは、単に召喚されますというメッセージを提示するものではなくて、来いという命令を含むものでしょう。
極めて大雑把に言えば。客観的なかたちでメッセージを伝える事実確認的な言明と、相手に対して何かを何かの働きかけを行う行為遂行的な言明とが概念の水準では区別されて論じられるというわけです。
「そもそもこのふたつは区別可能なんですか」という疑問が出るのも当然ですが、議論の詳細に立ち入ることはできません。私もオースティンに関して専門的な知識を持っていませんから、ここでは立ち入りません。

寧ろ話を変えて文芸批評の方を見てみると、特に文学とは何か、文学の本質とは何か、ということに関する或る種文学に内在的な議論が、ある時代の文芸批評言ってしまえば20世紀半ばのフランスにおいては盛んに行われていました。(勿論その背後には、前史としてたとえばフランス象徴主義を挙げる必要があるでしょう。)
その文脈の中で、例えばモーリス・ブランショなどが「文学と死への権利」などの著名な論文で示している通り、パロール、ランガージュといったものが或る種ナマの現実から我々を引き剥がす効果を持つ、ということを踏まえるのであれば、文学は新たな現実を作り出す。この「現実」というのはもちろん私が勝手に言っていることでブランショはむしろchoses「もの」とかexistence「実存」という言い方をしますが、ともかく文学というものがメッセージを伝えるということに存するのではない、という点をブランショは強調しますし、そうして読者に提示されるものがまた別の実存なのだ、ということを言うなどしています。もちろんこれについても深く立ち入ることはしません。特にブランシュは極めて複雑ですし、フランス語を読みながらでないとどうにも分かりにくい面があるので、それは別の方に、あるいは別の書籍に委ねたいと思います。幸い「文学と死への権利」を含むLa part du feuは『焔の文学』として邦訳されています。

ある種権威的な例を引いてきましたが、もっと卑近な例でも良いわけです。
召喚状が家に届いたら、特定の期日にここに来いという命令がなされているのであって、これには単なるメッセージとは異なる性質があります
あるいはオースティンからは遠い文脈にはなるかもしれませんが、日記を書くということは、最初から出版を意図するのでない限り、極めて個人的な営みです。もらろん自分に当てているのだということは言えますが、自分という他者は、一般的な他者とはもちろん存在の位相が異なります(深く立ち入りません)
また書くことには当然形式がついて回りますが、その形式も混み混みで、他者に何らかの要求を行うことにもなります。あるいは他者に特殊な思いを抱かせるということにもなります。内容が全てではないということです。
例えば私は手書きで手紙を書いて送り合うのが非常に好きで、それに付き合ってくれる友人がなかなかいないのを非常に悲しく思っているのですが、それはおそらく私と情報を交換しあうのが嫌というよりは、手紙が何らか心理的な重みを持つということに由来するのだと思います。特にメールや、チャットや、メッセージアプリによるコミュニケーションがごく一般的になってしまったこの時代にあっては、ボールペンないしは万年筆でわざわざ便箋に書いて、それを封筒に入れて、切手を貼って出すなどという面倒なことをやらかす人は、それほど多くないでしょう。そうして手紙が届いてしまうと、自分も同じ陽なかたちで手紙を書いて返さなくてはいけない、という精神的圧力があるわけです。つまり、手紙を書くこと、あるいは書いてそれを送ることによって、私は圧力を自然にかけてしまうというわけです。最近は手紙を書いて送るということもなかなかありませんが、ともかく、手紙を書く、手紙を書いて送るということには、他者に内容を伝える以上の際立った効果がある——特に現代にあっては——と言えるでしょう。
小説を書くことももちろんそうです。内容だけを伝えたいのであれば論文で十分でしょう。小説という形式をとるからには確実に、何らか内容には還元しえない何かがあるのです。


さて、こうした当然のことを、文学作品という形で示しているものは極めて多いと言えますが——というより、書くということに何らか言及している文学作品は全てそうだと言っても過言ではなく、そう捉えてみるならほとんどすべての作品がそうでしょう——日本人の手にも取りやすいものとして、ここでは野村美月『文学少女』シリーズから例を引いてみたいと思います。単に私の好みです。別に松浦理英子『奇貨』『変態月』でもよいわけです。……

例えば第1巻には、人と同じように人を愛することができず、人と同じように悲しむことができず、そうした他人とは違う自分は死ぬべきだ、という思いに取り憑かれて苦しんでいる二人の少年少女が出てきます。この二人はどちらも手記を残します。しかしその手記はこれこれこういう人間がいてねこれこれこういう苦しみを持っていたんだよということを伝えるためのものではありません。
この二人の場合、書いて読まれるということには何らかの意味を感じていたと思います。しかし、その内容を相手に客観的に伝えることが目的だったとはどうしても思われない。竹田千愛の場合には特に、自分と同じような魂を持ち合わせた、将来の後輩への死に方指南のような、極めて強く或る種の魂を持った人の生に干渉しようとするタイプの手記だったことでしょう。
竹田千愛は手記以外にも、転倒したかたちで、文芸部の部員に渡すべきレポートを書いていました。このレポートまた、2人にメッセージを伝えるためのものにはなりませんでした。書く者本人の精神に跳ね返る書物になったのです。そして、どのように苦しんできたか、どのように自殺未遂に至ったか、その背後にどのように感情があったか、をあえて言葉にする、あえて書き留めることはは、手記の場合とレポートの場合で異なる効果を持っていました。その異なる効果に関する率直な表明が、以下の引用に見てとられるでしょう。

こうやって、これまで起こった出来事を書き記してゆく作業も、以前のように辛くはありません。
前は、自分の醜く浅ましい本質が明らかにされてゆくようで、幾度もノートから目を背けました。
黒々とした文字が、汚らしく呪わしいもののように思え、大層恐ろしかったです。
でも今は、書けば書くほど、心の中にたまっていた悪い膿が吐き出され、綺麗に澄んでゆくようです。こうしてペンを走らせていると、心が落ち着いて、遥か遠くの未来まで見通せるような気持ちになります。(野村美月『“文学少女”と死にたがりの道化』ファミ通文庫、2006年、pp.243-244)

さて以上が第1巻の話であるとして、第2巻では、主人公ないしヒロインであるところの天野遠子の友人が、他者には決して読まれない作品内小説を書いています。この作品内小説を書いたということが、この第2巻の中でそもそも提示されていることがどういう意味を持つのかというのは極めて重要な点ですが、ともあれこの作中人物は、他者に決して読まれない作品内小説を書いている。他者に読まれないものにメッセージというものが内在するはずがないのです。書くことによって何かを贖おうとしたけれどもその何かは他人には直接知られることがない。唯一漸近しうるのは、この作品をよく読んで研究した読者のみです。また本巻にのみ現れる九條夏夜乃は、読める者がほかにひとりしかいない暗号で書かれた愛の表現を、学校のあらゆるところに刻み込んでいますが、これとて読まれるためのものではありません。読める当人は行方知れずです。……
いったいふたりが何のために書いたのか、それはどうにもわかりづらい面があるけれども、少なくとも読まれるために書いたのではない、読まれることの外部での効果が、何らかのかたちで狙われた、ということは確かであるように思われます。

続く第3巻では、また別の少年が意識のない母親へと何度も手紙を送るシーンが見て取られます。もちろんこの少年の精神も或る種危機的な状態にあり、彼はそれを慰謝するためにこそ、書いて、読めるはずもない母親に送っていたのですが、これはまさに、他者に伝わらないことを他者に伝えることを目的としない書き物のあり方でしょう(「送る」ということが、相手に届けることと必ずしも一致しない、という重要なこともまた明かされています)。

「文学少女」シリーズはそもそも、元ベストセラー作家であるところの井上心葉=井上ミウを主人公として、彼が再び書き始めるまでの歩みを描いた物語だ、と思うことが少なくとも部分的には可能ですが、この井上ミウという小説家において極めて顕著なのは、少なくとも作中に示されている限りにおいて、彼が現実を借り受けた著作しか書いていないということです。
もちろん、彼が文芸部で書いている三題噺や、あるいは依頼を受けて書いたシェリー『フランケンシュタイン』の、また武者小路実篤『友情』の脚本などは別ですが、いずれにせよ彼が自分の作品として提示しているもの、つまり第1作『青空に似ている』をはじめとして、第2作『文学少女』、第3作『天使の堕ちる音』などは、いずれも心葉=ミウにとっての現実が題材です。
現実をベースとすることが誰かの目にとって明らかであるところの作品を敷いて出版するという行為にもまた、メッセージを伝える以上のものがあるでしょう。

さて以上の記述がいかにも平板で、ありふれたもののように映ぜられるとすれば、それは私が当たり前のことしか書いていないからです。そして「文学少女」シリーズというものは、ある意味で当たり前の実践、つまり他者に内容を伝える以上の意味を持った「書く」という行為に時折スポットライトを当てつつ展開されるものなのです。


さて、例が長くなりましたが、私がこの記事で言いたいことはもちろん「書くことには他者に内容を伝える以上の効果がある」という一点に尽きます。あるいは、文字は純粋な伝達の道具ではない、と言ってもよいでしょう。言葉は、あるいはもっと限定的に言って文字は、混沌とした世界や心から純粋さを剥奪して、ときにはもともとなかったはずの要素を付け足して、何らかのかたちで固定化させる道具です。

ここから別のものをひねりだすのであれば、はっきりとした他者にはっきりとした何かを伝えたいということがなくても、書いてみるということで生まれる効果があるのだ、ということが言えるでしょう。

別に日記という形でも構わないし、手紙でも構わないし、あるいはブログをやってみたって良いと思いますが、誰に読まれなくたって、書くということには何らかの意味があるのです。あるいは読まれれば、また別の意味が生まれるでしょう。
それが良い意味なのか、悪い意味なのかは分かりません。役に立つ・役に立たないというのは全く別の次元の問題です。

しかし、書くことがある意味では無垢ではない、つまり書いている当人に対しても、あるいは周囲に対しても、純粋に内容以上の何かを与えてしまう、ということを踏まえるなら、濁りきった水底をかき乱すためだけに、とりあえず書くという手段は何かしら効果を持ちうるのではないでしょうか。沈思黙考するということに対して、書くという形式がある形でかけがえのない意味を持っているのではないか、ということです。