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【660】アンサーファーストを求める病

ビジネスにおいて……などと語るほど「ビジネス」に関わってきたつもりも、関わるつもりもないのですが、何であれ仕事をビジネスと呼んでよいのならば(そしてそう呼ぶことには良かれ悪しかれ一定の効果があるのですが)、手早く要約可能であること、あるいは要約済みであること、その帰結が最初に示されること、を重視する風潮がある、と言ってもよいでしょう。結論が最初にわかるのがよく、そこに至る論理は相対的には意味が小さい。

無論こうした態度はそれ自体として不当ではないもので(というか、それ自体として不当な態度というものはなく、ある状況においてのみ優劣が決まるのですが)、多くの理由ゆえにそうなっている、と言ってよいでしょう。さしあたりの結論があってこそ決定が行われ、次に進みうるからには、答えないしは結論をこそ知りたいのだ、という要求は不当なものではありません。

こうして真っ先に答えや主張を知りたがる態度、ないしはそれに答える文章や説明のありかたはしばしば「アンサーファースト」と呼ばれます。


アンサーファーストは上にみたような効果(や、その他たくさんの効果)を持ちます。しかしもちろん万能ではありません。まして、自分が「アンサーファースト」以外の形式をとる説明を理解できないことを隠蔽し、「アンサーファースト」でない文章や説明を糾弾してチンケなプライドを守るための原則ではありません。

人によっては、自分がメールやプレゼンの論理を把握できなかったときに、冷静を装いつつ「アンサーファーストでお願いします」などと言うのですね。これが天下の名門大学の学生だったり、後に「一流企業」に勤めはじめたりということもあるので驚愕せざるをえません。それはともかく、アンサーファースト以外の文面を理解できない人間が、必ずしもアンサーファーストであることがさわしくない文面に対してアンサーファーストを要求するのは、まさに無意識の他責とも呼べるものです。

世の中には自分の「頭の良さ」のようなものに自負を持つ人が多く、その自負はもちろん大切にしたほうがよいのですが、自負は思い上がりへと容易に滑落しうるもので、自分に理解できない・認められないものはダメである、という強固な信念ないし教義をお持ちの方もいらっしゃいます。

いや、信念や教義はおおいに結構なのですが、それがどのくらいの前提を共有していれば機能しうるものなのか、ということには注意が必要ですし、その信念や教義が持つ揺るがし難い前提は何か、信念や教義の持つ文面が表層的に理解されていないか、という点に対する反省は常に必要です。

(だいたい、頭の良い人は反省能力を欠いているのです。自分の持つ前提や、自分の能力の不確かさには目もくれない。私はその点、そこまで頭が良くないというつもりでいるので幸いですし、寧ろある程度遅く歩くことができるという点にこそ自負を持っています。)

「アンサーファースト」が本当に常に最善なのだとすれば、古来残されてきた、論理的に内容を説明している書物がどうして「アンサーファースト」になっていないのか、説明できないことになるでしょう。

まさか、歴史上の最高峰の知性が紡いできた哲学テクストや、やはり最高峰の鋭敏さを持った頭脳が政治的論争の文脈において特定の効果を目指して練り上げた文章の持つ形式より、量産型コンサルのポンチ絵パワポのほうが良い、と考える人はいないでしょう。(いるとすれば、その人はある意味で素直ですが、或る種の極端な反権威主義に通じます。たとえば医者をいっさい信用せず自分で治そうとする人に似ます。)

ということでアンサーファーストはもちろん悪くないにせよ、それが有効に機能しうる場面をきちんと吟味できないのならば無意味(どころか有害)です。
     
トンカチは「圧力を加える」ことには長けていますが、「圧力を加える」べき場面の全てにおいて役立つわけではありません。トンカチで栓を抜こうとすれば瓶が割れます。道具の用途に関する記述をハックして何かを強弁するのは、単に愚かです。

同じく、アンサーファーストは「説明や説得をする」ことに長けていても、その実、特定の質を持った内容・文脈においてのみ役に立つものです。


パラグラフ・ライティングの規則に似ていますね。

パラグラフ・ライティングと言うと大げさですが、たとえば「1つの段落に1つのargumentを入れようね」「段落冒頭の文を、内容を簡潔に説明するトピック・センテンスとし、それだけ読んでも内容がつかめるように書こうね」という一般的ルールを想定してください。こうしたきまりごとのようなものは、もちろん心がけてもよいものですし、何も書けない人が書きはじめるにあたっては、とりあえず服従して書いていくのが得策です。

しかし、実際のプロの論文がそうなっているわけではありません。複数の主張を含むこともあれば、単に前段落の説明に終始することもあります。第2文こそがトピックセンテンスである場合も、トピックセンテンスなどない場合もあります。

が、中途半端にパラグラフ・ライティングなど知っている人は、文章の内容を他人に説明するときにも、なんの事前説明もなしに「この段落のトピックセンテンスには〜と書かれていて……」などと、その文がトピックセンテンスであると言える理由をまるで説明しないままに書き出したりします。読む側にとって、ある文がトピックセンテンスであるか否かは内容を読んで初めて明らかになることであり、純粋に形式的に判断できるものではありません。

そうした単純・単線的な論理構造では表現できないものがあるからこそ文を書くのです。そもそもトピックセンテンスが全てを言い尽くすのならば本文を書く必要はないのですし、基本的方針は多くの場合、単に存在している現実から抽象しうるものを抽象したものなのであって、抜き去られてしまった要素や事例は現実において確実な意味を持っているのです。


似たようなこと、つまり内実を無視した形式主義は、一部の予備校関係者による、答案の文末表現に関する指導にも見られます。

理由を聞かれたら「〜から」と答えよ、内容を聞かれたら「〜こと」と答えよ(そう答えないと減点される)、という馬鹿げた指導が横行しています。もちろん馬鹿げています。

「〜から」「〜こと」と書いてはいけないというわけではありませんが、そう書かねばならないと思ってしまうと、しばしば求められる複雑な論理関係は表現できない可能性が高まりますし、端的に書ける内容が減ります(ですから、文末表現はどうでもよい、と教えるべきでしょう)。

そんな非本質的なことで減点するような主体が試験を作っているとすれば、そんなところには入らないほうがよいとさえ言えるでしょう。


もちろんアンサーファーストがダメだというのではありません。

ただし、アンサーファーストでしか達成できない効果があるのと同様に、アンサーファーストでは決して得られない効果があるのも事実だ、ということです。

抽象化するなら、万能な形式などなく、最良の形式は目的や内容に即して選択されるものだ、ということになるでしょう。