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【288】部分と全体の往還

「木を見て森を見ず」ということもあれば、「森を見て木を見ず」ということもあるのですし、森に手を入れるには細やかに植生を知る必要があるように、部分に関する知は全体に関する知と相補的な関係にあります。

そして、森を見るには、森だけ見ていてもだめで、森をとりまく山や平野や河川や空や、森を眼差す我々の眼差しを再帰的に見つめ直すっことも必要になるでしょう。もはや森は全体であることをやめ、環境のわずかなる一部へと様相を転じます。

言い換えるなら、部分と全体との関係は重層的で、相対的だということです。

そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


ヨガを練習するときにまず目がいってしまうのは、奇怪なポーズ——ヨガだと「アーサナ」と呼ばれますが——、ないしは自分の身体や精神に対してぎこちない抵抗として現れてくる特定のポーズであって、そのひとつのポーズを取るときにどのように体を使えば良いか、体の全体のバランスはどのようになっているか、ということであるように思われます。

あるポーズを取っているときに、筋肉や関節の使い方を誤っていると、上手くポーズを取れないことが往々にしてありますし、ひどい場合には怪我につながります。

身体全体のバランスをとることを考慮するときには、そのポーズを取るのに必要な筋肉や関節の動かし方に目を向けたうえで、細かい部分をそれぞれ調整してみるということが必要になるわけです。

場合によっては、完全なポーズを取るよう試みるばかりではなく、特定の筋肉を使っている感覚を身につけるために、筋トレのようなことをやることもあります。例えば私は最近では、棘下筋と小円筋の動き方をつかむために、ちょっと特殊な体の動かし方をするトレーニングをやっています。

そして他方で、ヨガというものは、一つのポーズだけで完結するものではありません。

シヴァナンダヨガなどの、一つのポーズを挟む度に寝そべって休むタイプのヨガだと——寝そべるのもアーサナのひとつで、シャヴァーサナと呼ばれますが——、また少し事情が変わってくるかもしれませんが、私がやっているアシュタンガヨガなどだと、アーサナとアーサナの連続性が極めて重要になってきます。

つまりひとつのポーズにおいて体をうまく使えているからといって、それだけで完結してはいけないわけで、次のポーズやその前のポーズとどのような関係にあるのか、ということを考えながら練習をし、その関係に対して一定の意味づけを生い茂らせてゆくことで、多面に渡り効果的なものになりうると考えられます。

このように、ヨガを練習するとは言ってもいくつかの階層を考えることができるわけです。

ヨガのシークエンス全体、つまり複数のポーズとその連続性において捉えられる面もあれば、身体全体のバランス一つ一つのポーズにおける身体のバランスという側面から捉えることもできれば、ひとつのポーズというある種の全体性はさらに、特定の筋肉の動きといった部分に分解されてゆくことでしょう。


もちろん、これで全てではありません。

アーサナの連続的な体系としてのヨガの実践は、もちろんヨガばかりではない我々の日常の中に組み込まれます。ヨガをやるということで、私たちの生活の他の部分は避けがたく影響を受けます。

当然ヨガをやれば一定の時間を使うことになりますし、さらに、人にもよりますが、身体の疲れという要素も看過しがたいでしょう。また、朝やるか、昼やるか、夜やるかというのも、 生活全体への位置づけという観点からすれば、極めて重要なことです。

あるいはまた、ヨガをやっていれば、避けがたく身体への影響が出てきます。体が健康になって、何か良いことがあったり、悪いことを事前に避けたりすることになるだろう、というのも、生活という全体におけるヨガの位置づけに関わる要素でもあります。

もちろん、「生活」の全体というものを、関心の及ぶ限りで、他人の生活や社会といったものに結びつけても良いでしょうし、もっと幅広く時間軸や空間軸を取って、関心の輪を拡張してもよいのでしょう。

このようなかたちで、部分と全体という概念は当然の如く相対的なものです。どこに着目するか、どの程度ズームイン・ズームアウトするかによって世界は様相を変えるのですし、それゆえ細かい部分がひとつ組み替えられるだけで、全体に対して抱いていた像が変容していくということもあれば、全体像に合わせて細部を整えていくモメントも決定的に重要になってくるでしょう。


実にこのようなことは、当然ヨガでなくても言えます。

例えば目の前にジグソーパズルがあるとすれば、もちろんパズルの完成予想図というものを見ながら私たちはパズルを組むわけです。

しかしその時も、全体像だけをぼんやり眺めていては、特に大きいパズルになってくると組み立てることはなかなか難しいでしょう。

たとえば絵の中の目立ったオブジェや、目立った色があるところに着目して、その部分だけはさしあたって完成させる、ということが考えられるわけです。そうして組上がっていったいくつかの部分を組み合わせて全体を構成するわけです。

ところが、パズルは私たちが生活の中で時間を割いてやることで、できあがったパズルをどうするのか——崩してしまうのか、糊を流し込んでかためて飾るのか——はもちろん問題になるでしょう。そればかりではありません。そもそもパズルをするのかしないのか、やるとすればどのサイズのパズルをやるのか、パズルをやるのに割く時間をどの程度・どう捻出するのか、どこにやりさしのパズルを置いておくか、ということもまた問題になるでしょう。

つまりパズルをやるという行為、ないしはパズルを組み上げるという一個のプロセスに関しては、そこに属するひとつひとつの部分を慎重に組み合わせるプロセスがあると同時に、より全体的なもの——つまり生活全体——の中にパズルをどう位置づけるか、ということもまた問われることになるのです。


あるいは音楽でもそうで、ひとつの曲を満足いくかたちで演奏できるようにするためには、もちろん基本的な技術が備わっているという前提のもとで、演奏しにくいフレーズを確実にこなせるように反復練習する必要があるわけですし、そうしてそれぞれのフレーズが完全に演奏できるようにするための訓練を行うとともに、楽曲全体ないしはま楽章やひとつの主題全体を通して検討し、どのように演奏すべきかを検討する必要が生じるわけです。

あるいは家で練習するばかりではなく、たとえばプロとしてリサイタルを開くのであれば、そうして一定のレベルまで仕上がった曲をどのように配置するのかが極めて重要になってくるでしょう。日本の音大の卒業試験は10分程度のようですが、たとえばドイツの国家演奏家資格を得るための試験では、(協奏曲も演奏せねばならないとはいえ)リサイタルのプログラムを複数組むことが求められ、個々の曲の完成度のみならず、プラスアルファが求められます。

さらに言えば、どのような日程・場所でリサイタルを組むのか、ということもまた大切になってくるでしょう。

こうして曲の演奏という「全体」から少し遠ざかってみると、別の「全体」がまたじゅうような要素として立ち上がってきます。

たとえば、ピアノであれば、調律が問題になってきます。ピアノや楽器の調整といったことが問題になってきます。コンサートホールでのピアノは一般に、家庭や練習室のピアノよりも少し音程が高めに調律されています。一般的な家庭用の家庭での調律は基準のA(ラ)の音が440hzで響くように計算されていますが、コンサートホールなどだと446hzでやることもあり、ことによってはもっと高く調律することもあるという成り行きです。これは華やかに響かせるためのもの措置であって、決して珍しいことではありません。

これは純粋な音程の問題というわけではありません。高めに調律するということはハンマーが叩く弦を強く張るということですから、微細であるとはいえタッチがおおいに変わってきます。なので、ピアニストの中には専属の調律師を抱える人もあるくらいです。

ピアノの調律は、それはそれとして一個の全体をなして、楽曲の練習や配置というまた別の全体とともに、演奏活動というより大きな全体をなしているわけですし、これはさらに、人生ないし生活と言う全体のうちのいち部分として位置づけられることになるでしょう。 


例ばかりをつらつらと述べてきましたが、いくつか言えることがあるようです。

一つは、最終的には全体をどうとらえるか・どう作るかということが重要になるということです。

あまりにもドライな言い方に聞こえるかもしれませんが、ヨガをやるにせよ、パズルをやるにせよ、音楽をやるにせよ、それは私たちが与えられた手持ちの時間や資源の中で行われるものであって、その中で、トータルでは良いものにしたいというのが人情というものでしょう。

人によっては、他の部分を食いつぶしつつヨガに全身全霊をかけるのが良いという人もあるでしょうし、あるいはパズルは1時間1日1時間もやりたくないけれどもやるのだ、という人もいるでしょう。あるいは1日12時間以上音楽に費やすという人がもちろんいて良いはずです。

とはいえ、寝たり食べたりはするわけで、どれほど力や時間を私たちの個別の営みは私たちにとって究極的な「全体」にはならない、ということは確かでしょう。その意味で生活というのは根本的な全体をなしているのです。なので、どのような営みをやるにしても、最終的には生活の全体をどのようにするか、ということに問題がかかってくるようでもあります。

いわゆる「ワークライフバランス」もこの点から捉える必要があるでしょう。ワークとライフとでは、多くの場合にライフのほうが上位にあるわけで、認識の上ではそうでない可能性があるとしても、ライフがなければワークもできないからには、バランスはワーク「と」ライフの間で取られるべきものではなく——それはそもそもカテゴリーを誤っているのではないでしょうか——、ひとえにライフ全体のorganisationという観点から捉えられるべきでしょう。

その点をはっきりと目視してこそ、細かい部分に対する見通しがきき、また個別の状況における方針を立てやすくなるように思われます。


そして、この点に直接的に関係しますが、私たちが個別の場面においてある種の全体性をもって捉えているところの対象は、少し目を離して俯瞰して見れば、また別の全体における一つの部分にすぎない、ということがあるわけです。

先ほども見たヨガの例で言えば、一つのアーサナを攻略しようと思っているときには、そのポーズが思考の領域の全体を占めてしまうかもしれません。そしてその範囲で、個別の筋肉や間接をどのように動かすかを考慮するのでしょう。

とはいえ、そのときに全体性を持って捉えられているヨガのひとつのポーズというものは、前後のアーサナとの関係の全体の中で捉えられる、ひとつの部分になりうるわけです。そしてヨガとして学んでいる体系そのものもまた、生活という全体のうちに位置づけられる一つの部分になることがありうるというわけです。

あるいはもう一つ、決定的に重要なパターンを挙げてもよいでしょう。……私たちのうちの或る種の人間は、今ここにある事態こそが全てであると感じられる瞬間、すなわち天と地と自らの認識と行動とが全て一致するかのような瞬間を体験したことがあるはずですが、それでも否応なしに時間は続いていくのであって、一個の全体性を持っていたはずのその瞬間が人生という全体性から捉え返されるひとつの部分に過ぎなくなる、ということがありえます。

物事の位置づけは、どの程度その対象から論理的に離れて見るかによって大いに変更される可能性がありうる、ということです。


以上の例からもさらに言えるのは、全体に合わせて細部を整えるという発想があると同時に、細部において何か変化があれば全体にも波及することが大いにありうる、ということです。

もちろん生活の全体をオーガナイズするなかで、どの細部を選ぶか、細部をどのようにするかを決めるのがごく一般的な順序ですし、これは即ち目的を定めてから方策を考える、という当然の順序でもあります。この意味で、トマス・アクィナス『神学大全』の人間論(第2部)が人間の「目的(finis)」という点から出発することは実に啓発的です。

何らか譲れない細部がある場合には、その細部を固守するためにこそ当初思い描いていた全体像を変容させていく必要がありうるということです。

健康維持という観点から言えば、私もヨガなどやらずに筋力トレーニングと有酸素運動をやるのが良いに決まっているのですが、気まぐれにヨガを始めてみて、予想以上に面白く、また身体の健康を保つという以上の意味が見出されたので、ヨガを続けている感があります。つまり、ヨガに対する全体的な意味付けはもはや「健康維持のツール」というものばかりではありません。

たとえば腕の筋肉を鍛えたいなら、腕立て伏せでもダンベル持ち上げでも、ほんらい手段はどうでもよいわけです。手段は重要ですが、手段は一般に、より上位の目的に釣り合うかたちで定められます。どちらのほうが負荷が大きいとか、ダンベルはものが増えて生活空間が不快になるから嫌だとか、そうした判断から決められるわけです。

ところが、手段の固有性こそが重要になる場面があります。大袈裟な言い方をすれば、ヨガはもはや人生の挿げ替え可能な一部というよりは、ほんのわずかではあっても、人生の一部を割いて取り組むべき固有性を持った営みです。このように手段が自己目的化する、手段と目的の秩序が転覆される場面においては、寧ろ目的のほうが変容することになるでしょう。

全体像に合わせて細部を変えるのがある種の目的論的な態度だとすれば、個々の細部に合わせて全体像をその都度作り変えていくのはプラプラ歩く観光客のような態度かもしれません。あるいは、理念を体現することになる実定法が具体的な事例に合わせて構成されることを思えば、現場主義的な発想と言ってもよいでしょう。

どちらが良い・悪いということではなく、生きていれば普通はどちらの向きの力学も経験することになるとは思いますが、ともかくどちらの向きの働きもありえる、あってよいということを冷静に認識し、また許容しておくということで得られる見通しもあるように思われます。自分が何をやっているのか・何を考えているのかということに対する見通しなしに、何かしらの望みをかなえることなどできはしないのですから。


こうして部分と全体の重層的な関係(があること)を前提しておいて、解像度を上げたり下げたり、対象とレンズとの距離を近づけたり離したりしながら自らの視界を調整し、日々の具体的な生活を送っていく、というモデルは、少なくともモデルとして有効に機能する面があるのでしょう。

■【まとめ】
・生活上の営みに関して「全体」だとか「部分」だとかいうのは相対的な言い方であって、対象との距離取りによってすり替わるのだし、「全体」だと思っていたものは他の雄「全体」とともにまた別の「全体」を構築する部分になりうる。 

・何が上位の「全体」かということを考え、そのうちに細部を位置づけるのが常道でありつつも、細部に係る規定を通じて全体の方針が規定されることもある。

・全体と部分の間の往還を通じて、適切な実践が可能になってゆくのではないだろうか。