ちょ、そこの元サブカル女子!~白川ユウコの平成サブカル青春記 第八回/だいたい三十回くらい書きます


1992年 平成4年 16歳 高校一年生

☆5月 漫画家山田花子自殺

 土曜二部、夜中の三時から五時放送の電気グルーヴのオールナイトニッポンに夢中だった。キレッキレのギャグ、悪口、下ネタ。「平成新造語」。「ギブ&迷惑」。「自分国俺法」。隣で眠る姉を起こさないように笑いをこらえながら聴いていた。
 放送作家は椎名基樹氏(のちにSPA!でバカはサイレンで泣く、を開始)で、卓球さんの高松中学時代の後輩、私と同じ西高出身と聞いた。学校で、長く勤めている社会・倫理のおじいちゃん先生にどういう生徒だったのか訊いてみると、「いつもふざけてみんなを笑わせていたねえ。でも不思議と授業中に邪魔をすることはなかったなあ」という話が聞けた。
 一度だけ、葉書が読まれたことがある。ネタはたいしかことはないのだが「ペンネームがおもしろい」ということで。ほんとうに「春のあゆみ」(天久聖一画の鬼のステッカーだった)が送られてきた。宝物だ。
 ピエール瀧と石野卓球のいつもの冗談の合間、コマーシャルの代わりに(二部はスポンサーが付かないので)音楽が流れているのだが、終盤近くはいつもART OF NOISEの「CRUSOE」だったか、それが流れたあと、卓球さんが「先日、漫画家の山田花子さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りします」という短い言葉があった。え?何?ギャグ?…っていうノリじゃないな今の何?と戸惑った。初夏の明け方はずいぶん明るく、窓には朝日をうけた庭の夾竹桃の葉の影が揺れていた。
 翌月の「ガロ」は山田花子追悼特集だった。たくさんの漫画家、アーティストがお悔やみを寄稿していた。卓球さんも文をよせていたし、たまのメンバー、演劇界の面々も。漫画の主人公にみるいじめられっ子とは思えない、華麗な交友関係で、こんなに仲間がいたのに、私の憧れの人たちからもこんなに支持されていたのに、それでも生きてはいけなかったんだなあという驚きと残念と、でも作品から受ける、簡単に生きていけるタイプの人間ではない印象、救いのないストーリーからは、やっぱりなあ、という感情がおこった。

☆7月 猛毒「これで終わったと思ったら大間違いだ!」、ドラマ「ずっとあなたが好きだった」、バクシーシ山下監督「ボディコン労働者階級」人生「SUBSTANCEⅢ」「SUBSTANCEV」

 ラジオでの石野卓球おすすめ曲のコーナーに影響を受け、地元のレコード屋さん「すみや」で手に入るものは購入した。クラフトワーク、シリコンティーンズなどは容易に見つかった。注文したらSPKやウルトラヴォックスも入手できた。姉が新静岡センター裏に輸入盤屋を発見し、プライマルスクリームはそこで買った。縦長の箱入りだった。フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」の元ネタに興奮。姉はベティ・ブーを購入。図書館でYELLO「stella」を見つけて、カセットテープにダビングして愛聴した。
 しかし、卓球さんの紹介する音楽は、アナログ盤のみの販売だったり、東京でしか売ってなさそうな、しかも独自の嗅覚で探し当ててくるレア物も多かった。
 古本屋で「DOLL」という雑誌を見つけた。バックナンバーには、ナゴムレコードの人生の取材記事があり、書店で最新刊が売られていた。インディーズバンドのCDを通信販売対応のお店の広告があり、デビュー前の電気グルーヴの「662BPM BY DG」、人生のドーナツ盤三枚、ソノシート、「バーバパパ」などを購入。父がベートーヴェンやモーツァルトを聴くためにあるレコードプレイヤーで再生した。
 「事件事件!すごいCDが出た!危なすぎる!」内容が危険なため国内のCD工場すべてに生産を断られ、ジャケットすらもどこの印刷会社も嫌がり、仕方なく韓国の業者に頼んで逆輸入というかたちをとった猛毒「これで終わりだと思ったら大間違いだ!!」。二枚組で6000円ほどだったが、今買っておかなければ、といつもの通販のお店に頼んだ。横山やすしやガッツ石松の発言など、音源の入手方法が謎。ムツゴロウや大山ノブ代disり、なんといっても「中○残留孤児、おまえらは日本人じゃねー!」これはどのメーカーも断るわけだ。ただ単に、言ってはいけないことを絶叫していることの面白さを当時は楽しんでしまっていた。「月月火水木金金」「ほんとにほんとにご苦労さん」などの厭戦歌も扱っており、思想的背景はわからない。兎にも角にも当時の私にとっては、ヤバいものを買って持って聴いている、そのことが重要だったのだ。

☆10月 ウゴウゴルーガ放送開始
☆12月 渡辺文樹監督「ザザンボ」公開、上條淳士「sex」完結

 ある朝、通学路の電信柱に、静岡高校のあたりから安西橋を渡ったところまで、「ザザンボ」という謎の言葉とともに印刷された、人の顔を描いたであろう不気味な油絵のポスターが貼りだされていた。よく見ると、映画の告知らしい。市民文化会館で上映。学校でも、あれは何?怖い。気持ち悪いね。映画だって。15歳未満禁止?怖いやつ?と話題がもちきりだった。学校の遠足かなにかで観光バスに乗ったときにも、バスガイドさんが「ザザンボ、って何でしょうね。観に行った人いますか?」と言っていた。結局、公開が終わってポスターが撤去されても、観たという人には出会っていない。
姉は、上條淳士のファンで、週刊ヤングサンデーをいつも買っていた。巻末の二色カラーページの吉田戦車「伝染るんです。」が好きで私が買うこともあった。古本屋でみつけた「戦え!軍人くん」の主人公・吉田(坊主刈の兵隊)が奇妙に魅力的だった。「オカマ白書」「Bバージン」、ほりのぶゆき、喜国雅彦、とがしやすたか、遊人らの漫画も載っていた。
 「sex」は、女子高生カホと二人のイケメン(殺し屋。記憶喪失)が主人公で、沖縄や横須賀など米軍基地の「フェンスのある街」を舞台にしていた。美しい絵柄で、ストーリーはその絵の場面を活かす装置ぐらいの、それほど起伏もないものだったが、THE BOOM「島唄」を愛聴し、この漫画にはまっていた姉は、進学先を沖縄の短大に決める。幼い頃に家族で旅行したときの鮮やかな思い出もあったという。
 近所の大きな靴屋「大内ヒビキ」では、毎朝、商品を店頭に並べる仕事にアルバイトを雇っていた。コンテナやワゴンを移動させ、靴をディスプレイして15分ほど、1500円。おつりに使えないような千円札にセロハンテープで五百円玉を貼りつけて渡してくれる。この仕事を一ヶ月に十日ほどやっていた姉を引き継ぐかたちで私もできることになった。われわれ姉妹の金銭感覚は多少狂ったのだが、経験できた唯一のバブルの恩恵だったと思う。
 同世代の話し相手は二つ歳上の姉のほか、私立の高校へ行った数人の友達、そしてまだ見ぬ友人・文通相手のコイちゃんだった。高円寺に住み、小学生男子のような字で、私と同じようにこの世界への違和感を書きなぐる彼女に早く会いたいと思った。お正月に東京へ行こう。高円寺に会いに行こう。靴屋さんのお給料を大事に貯金した。

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