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私的セレモニーの終了

 私的12月セレモニー、昨日終えてきた。サントリーホールで第九を聴くこと。もう10年以上経つひそやかなイベントだ。不思議なことに最初から最後までものすごく感動して泣きださんばかりのときと、感動の波が現れずに第4楽章の合唱部で感極まるときとがある。昔はこれを、1年どう生きたかが関わっているのだ、、とかもっともらしいことを結論づけてきたが、あんまり関係ないな、ということに現状落ち着いた。

 今年は実はあんまり感動できなかった。たぶん席がよくなかったのだ。S席ではあったけれど、後ろから数えた方が早い席だった。毎年前から数えるほどのオーケストラに近い席で指揮者の汗の飛び散りや、楽団員の方の譜面をめくる音まで聞こえてきて、その演奏する方々の迫力にも飲まれていたことが大きいのだと思う。合唱の方々の表情もいつもすごくよく見えて、いよいよ始まる!というときの緊張感も伝わってきて。また、音の迫力がなんだろう、昨日は魂に入ってこなかった気がする。。これはもちろんのことだけど演奏の問題ではない。

 数年前に海外の有名な指揮者が病気で急遽代理で振ったのがサッシャ・ゲッツェルさん。このとき私はかなり前の席で、生まれて初めて指揮者の迫力に完全魅了された。楽団も合唱の人の姿も目で追えなかった。サッシャさんの指揮する姿しか見ていたくない、というほどに夢中になった。そしてその演奏は素晴らしく、最初からずっと泣いていたと思う。

 このときの経験がよくないのかも。もしかしたら稀なことなのかもしれないのに、この至高な体験を追い求めてしまっているのかもしれない。ただ、合唱が始まるとやっぱり感動し、涙が出そうになる。パンフレットには当日の指揮者の方のコメントに、合唱のときベートーヴェンの霊が下りているのかも、そういう曲、とあったがそうなのかもしれない。そして、ベートーヴェンはシラー詩の「歓喜に寄せて」の始まり、あえてこの3行を自ら足した。

「おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを」

 と歌わせる。そう、つまり合唱、人の声こそがこの交響曲の核なのだ、といわんばかりに。

 そういう意味では合唱部で最大の歓喜に包まれ、ベートーヴェンの魂と共に彼の人間賛歌に酔い、「生きよ!生きよ!」と畳みかけられるのは私の1年の締めくくりに実にふさわしいのだった。

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