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轍に残る生きた標本

 ダッシュボードを見たら、「ん?なんだっけこの記事」と思う記事タイトルが閲覧数上位にあがっていた。「You've Lost That Lovin' Feelin'.」というものだ。開いてわかった。なるほど、「Top Gun」についての記事だった。もちろんオリジナル作品のことである。読み返してみると私の気質、要するにオタクっぷりがさく裂していてなかなかいい。笑

 全世界で「トップガン マーヴェリック」が大ヒットしていて自分も公開後早々に鑑賞したのだが、これについては特に書くことはない。もう別の映画だと思っているしトム・クルーズというアクターのプロフェッショナルぶりはこのうえないが、物語としてはオリジナル版に比べるべくもないと個人的には思っているからだ(結局書いてるじゃん…)。

 ときどきこういう、過去の自分からの手紙みたいなことってある。
 
 そのとき感じたこと、今では新しい日常の流れのなかにいて、心に留める問題やトピックスが変化していて、今であったら抱かなかったかもしれない思いのようなものが、書き記しておくことで甦ってきたりする。だから私は「思考の整理場所」とここを称しているのだが、この体験は非常にユニークなことだと思うし、過去を生きてちりばめてきた自分の欠片が、平行次元のなかに確かに生きており、それら点在する自己は統合されて今この瞬間に在るのだと考えると実に興味深いものがある。

 昨日もそういう意味で似た体験をした。かつての同僚が勤務する出版社に、仕事で彼に仲介を頼んだうえで訪問した。編集長たちに会い最初のアイスブレイクの会話で何気なく、「ご紹介をお願いしたAくんとは、20年前に元同僚であったことから…」はい驚愕。考えてみたところ20年前だったので事実としてそう話したが、話した時点で衝撃を受けた。おそらくAくんも同じ感覚を持ったのが表情でわかった。

 え、私たちって20年前の時点で既に立派な社会人やってた年齢だったの?って事実に衝撃を受けたわけだ。「当たり前じゃん」と思うかもしれないが、20代の頃に20年前っていったら生まれた間もない時代を指す。これもまた当たり前のことだ。この、振り返る時間軸というか時間の幅が、かように堆積されている今を我々はもう生きているのだ、という事実が本当にこれまた驚かされる。たんに年を取った。ということでもあるのだが、心や物の見方、感じ方、本来の部分、そうしたところが大きく変わっていないわけで「あの頃、共に生きた延長線上のいま」というのが普遍的すぎて、ゆめゆめ20年もの歳月を経過しているとは思われなかったのだった。

 会えばもちろん、口に出さないがお互いに「こいつも年を取ったな」と思うほどには互いに老化しているんだけれど、話せば何も変わらなく、ひといきに20年の時を越えている。越えているというか、そんなものまるでなかったに等しいのだ。「あーそうそう、この人のこういうとこ相変わらずカチンとくるんだな。かと思えば、そうね、こういうとこが頼りになるんだよなぁ。何も変わってないな!」など、20年経って別の人間として眼前に現れるかと言えばまったくそんなことは起きない。ちなみに彼とはこの20年で会ったのは5,6回ほどで、生きてきた変遷を目撃してきたわけではないのだ。これは本当に不思議で、目下80歳などになったときにでも同じように感じるものなのか興味がある。

 生きた片鱗をあちらこちらに振りまきながら、自己の欠片がそこここで小さく光りきらめいている。勿論、二度と思い出したくもない自分の過ちも確かに軌跡をかたどっている。すべての人がだ。ああ、だからこそ何を思うか?が大事であり、どう生きるか?が大切になってくる。だって、今ここに在る自分というのは一足飛びでここに存在しているはずがなく、過去のすべての道のうえで思い、考え、行動してきた集大成なのだもな、と土曜の寝ぼけた頭のまま、ぼんやりと思ったりする。

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