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リップクリームみたいな気軽さで

つけている香水の銘柄をぶちまけるのは、すごく品がない行為というか、せっかくセンシュアルに印象を残すことができて、秘密めいていることに意味があると信じているので、ナンセンスなことだと思ってしらけてしまう。それをあえてやってみようというのは、自分的香りの遍歴にやっと、誰かの能書きでない自己の履歴書ができたような「学び」を感じることができたからだ。

高校生の頃から憧れていた女性像というのが、ジャンヌ・モローのごとく退廃的なフランス女優であり、オリエンタル調の重たい香りばかりつけていた。ニキビで頬を赤くしているような田舎の小娘のくせして、いつも世の中を斜に構えてみていた少女が、決して心よくないむせ返るようなアンバーやムスクの香調が似合うわけもなく、この不格好さがまるで青春の光と影のようだった。今思えばだけど…。

大学生になると、アルマーニの「アクア・ディ・ジオ」が等身大の自分にとても合っているように思えて、長いこと愛用したが、高島屋の香水売り場のお姉さんがものすごいイイ女で目が覚めるような感動を覚えた。それで、彼女に“香水指南”を頼み、薦められるままに、クリスチャン・ラクロワの「セ・ラ・ヴィ!」を皮切りにいろいろと試した。たとえばサンローランの「ジャズ」なんかは、男性用なのだが、そのスパイシーで魅力的な彼女が薦めるものだから買ってみたけれど、これはあの女性にこそ似合う香りであって、わたしにはとんでもなく苦痛な香りであった。彼女はわたしに似合うものではなく、「香りを通して自分の女性性を発掘していきたい年下の女の子」に向けて、たくさんの香りの冒険の導き手となってくれたのがわかる。

出版社に入ると、それこそ身だしなみとして香りをつけていないと無粋と言われた。それに毎日のようにどこかしらのブランドで開催されるパーティーや展示会で現品をもらう機会も増えたので、この頃が一番ノンポリであった。ランバンの「エクラ・ドゥ・アルページュ」など、もらったものを気に入ればつける、そんな感じと、編集長や目上の社員がつけているものと同じものをつけるのは暗黙のタブーであったので、面倒になりつけないことの方が多かったくらいだ。この頃、どんなことにおいてもこんな感じで、上司とぶつからないもの、自分ごときの個性を主張しないものを選ぶことで組織に埋没していることを暗示していた。

その後、継続的に使用しているのはステラ・マッカートニーのオードパルファム。すべてが天然成分でさまざまな薔薇の香りが移り変わる、爽やかでありながらどこか物憂い。一度日本撤退してしまったが、長いことメインに使用する香りとして定番化している。そして、だんだんと気温が下がり日が短くなってくるとキャロンの名香「サクレ」を好む。完全に夜の香りと呼ぶにふさわしい、限りなく重い豪奢な香りだ。ただ、電車でこの香りがしたら酔いそうなのでなるべく、一度帰宅してパーティーに出かける前にひと吹きしてタクシーを利用するようにしているのだが。

思い返すまでもなく、フランスの香水ばかり愛用してきた。でもこのところ、気分にフィットしないというかもっとリップクリームをつけるような気軽さで香りを身にまといたい…と思うようになったとき、まさしくうってつけであったのがアメリカンブランドの香りだった。

そんなわけで文字どおりリップクリームのごとく気軽に愛用しているのが、エスティ・ローダーの「プレジャーズ」だ。それこそ出版社時代にもいただきもので使用して好きな香りだったのだが、当時は「軽すぎる」と思っていた。香りってどこか自己主張のようなきらいがあり、代名詞として軽いアメリカンブランドをまとうことに、自分の存在感も軽いもののように感じられたのだ。けれど今の自分にはうってつけと言えるほどにフィットする。

いろんなことを知り、捨ててきた。必要なものだけ手に携えて生きてきた。その結果がこの軽さとの再びの出逢いかと思うと妙にうれしい。

ブランドとの付き合いが最近ようやっとわかってきた気がするのだ。あれこれと知り、試し、自分とフィットするものを理解していくことの歓び。大人だからこそ愉しいあそびである。

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