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思ったの記

18歳の3月、浪人生となることが決定した。父の事業が2度目の不渡りを出して倒産の憂き目にあうのはそれから約1年半後のことで、既にこの頃、娘を予備校に通わせる余裕は我が家には到底なかった。それでもどうしようもない見栄はりと間違えたプライドにがんじがらめの父親は、学費をアルバイトでねん出したいというわたしの申し出を頑として許さず、予備校はあきらめるから、欲しい参考書や学習教材を購入したり、模擬試験を受ける費用を自分で出すためのアルバイトを許してほしい、と3時間ほど土下座して懇願の末、この家はじまって初の、子どもにアルバイトを許可するという第一号が誕生した。

朝5時に起きて6時から近所のコンビニで9時までアルバイトをしながら、帰宅して図書館へ通って終日勉強をする日々のなかで、とりわけ最初の3月4月というのは行き場のない孤独と怒り、不安が膿のように蓄積されて自家中毒を起こしていたと思う。春先のうららかな陽気、一斉にほころびはじめる花々。道行く人は誰もが自分以外すべて幸福に見えた。

新聞やニュースで目にする事件事故の当事者たちは、必ず性別と年齢と共に職業が記されていておびえた。「いまわたしがニュースになるようなことになったら、浪人生ではなく無職と書かれるのか…」。それまで「学生」という肩書をなんとも思ったことなどなかったけれど、これほどまでに世間に必要とされていない、居場所のない人間なのかと思うと暗澹として落ち込むばかりであった。

図書館の入り口に面したベンチはちょうど桜の樹を傍らに携えていて、わたしのお気に入りだった。そこに座して手持ちのお弁当を食べていると、白いごはんの上にはらりと淡いピンクの花弁が舞い降りてきた。瞬間的に嗚咽しそうになるのをこらえ、心は嵐の夜の海原のようにどう猛な怒りと脅えに支配された。かなしい。桜の花を見ても、そんな心持ちをどうにもできない自分の矮小さがかなしかった。

一方で、生まれて初めて労働力の対価を得られる生活をしてみて、「お金を稼ぐ」ということの内容を理解し「これはいい!」とつくづく感じた。人(親)に物をねだったり、おこづかいをもらえないと何もできない、という生活ではなく、自らの存在が糧を生み出せる資源なのだと思うと静かな興奮が訪れた。好きな学習教材を買って、模擬試験代や交通費を出してもまだ余裕が持てた。家族に贈り物を買える、しかもおこづかいではなく自分が労働をして得たお金で。これは素晴らしいことだった。もちろん、父がアルバイトを許す交換条件として自ら「学費を稼ぐ。そして大学にも絶対に合格する」と宣言したため、給料が入ると同時に一層「これで落ちたらどうなることか…」という恐怖が負荷をかけ、勉強一色の生活よりもメリハリが生まれて結果奏功したと思う。

いまの情勢不安、いつ収束するとも保証のない感染症のまん延する現在を生きていて、ふとあの頃の生々しい感覚を思い出したのだ。なんでだかはわからない。けれど18歳の自分も、自分の手だけで解決できない状況のなかでも選択することを続けて乗り越えてくれたからいまがある。

自分のいまも、この先の自分が振り返ったとき「まあ、わるくはない」と言ってもらえるように生きなきゃあかんな、と思ったの記。

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