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人は皆、その配役を生きる

 自分は以前、「人生って舞台」なんだと現在より強い確信をもって眺めていた。ドラマティックに、という意味でなく、すべてこの世に生を受けたら、みんな自分の配役を生涯かけて演じ切る(本人演じているつもりなどないことが重要)だけなんだ、と考えていた。特にその思いを強くしたのは30代の前半で社長になったことが契機だ。身分不相応、器でもない、という思いにさいなまれ、日々とてもつらかった。自ら立身出世の念を得ての起業ではなく、抜擢されたことで人生をシフトしたので、そうした思いがあったのだ。

 当時株主であった人が非常なスパルタで、私の自信の無さをことごとく突き責め立てた。「社長と呼ばれることに少しも気持ちよさを覚えないのなら、今すぐ辞めちまえ!」と毎日怒鳴られ、内心自分は「気持ちよく聞こえるはずがない。やりたくてなったのではないのだから。私はただ、いい仕事を追求したいだけ」と思っていた。口に出したら怒号が飛ぶので無論、胸の内にとどめていたけれど。
 また、彼は私のファッションにもことごとくダメ出しをした。コンサバティブでエレガンスという、過去にやっていた雑誌のスタイルを踏襲していたのだが、彼いわくそれが年相応に見えなく、老けてみえるというのだった。そこで「実年齢より5歳若く見えるよう見た目を変えろ。今は実年齢より10歳老けて見えるから」。それだけでもが――――ん!という感じだったが、さらに彼は「あと、まだ女社長というのは商品になる時代だ。コスプレと思って思い切り女社長のコスプレをしろ。そうね、金髪にでもして」と事もなげに言ったのだった。

 当時の何をしても怒鳴られ萎縮しまくっていた自分は、もちろん生真面目に言う通りにした。と、横道にずれてはまり込みそうなのでいったんその話はそこまでにしつつ、そういった経験からも「自分は今、社長という配役を割り当てられた人生を歩いている。ではその役を思い切り演じよう」と考えて装い、話し方に話し言葉、いわゆるノンバーバルと言われる非言語領域の自己すべてを意識的に変えたのだった。仕事の能力を相応にするための努力も、言わずもがなである。たまたまそれは社長だが、人によってはさまざまな設定の配役を日々、懸命にパフォーマンスしていると想定した。今思えばそれって「社会的自己」ってやつなんだろう。
 もともとシェイクスピアが好きだったので、後天的にそうした発想になったのかもしれぬ。

 それで、だ。

 今どっぷり渦中にはまり込んで深刻になっている自分がいたとして、常に頭の上方にもう一人の自分が見ている。それで言う。「その感じ方、物の見方はあなたのものだけど、対するあちら側の登場人物の心理はこうかもしれないよ?」と。私は大抵そのようにして、自己の物語だけが物事の真実でなく、関わる人の視点に立ったとき、私が問題を起している張本人の可能性をもって常に客観視をすることに努めるようになった。

 昔だったら、つまりもっと幼かったら、いわゆるDiva、日本語だと単に「歌姫」という訳があてがわれるが、これは英語だと若干揶揄の響きがある言葉。「女王様気質の嫌な女」として使われるケースがある。まあつまり、そんなふうにして悲劇のヒロイン気取りでわーきゃーわめいてしまったかもしれないな、と思う。この、対する相手なりを「この人もその配役を懸命に生きているだけであり、かつその人視点で物事を見たら話しの筋は結構変わる」という思いを持つと、人生は楽にはならないけれど「罪を憎んで人を憎まず」の心境には立てる。人は社会の子であり、必ず人と関わってしか生きていけない。ならば、人を憎まない方がベストであるのは間違いない。

 去年の今ごろに劇場で観た「最後の決闘裁判」は、まさにこのことを私に何度も思い出させてくれる。ひとつの同じ物語が、3人の視点それぞれで見るとまったく違う話になってしまうのだ!恐ろしいことに、それぞれが自分の視点しか認めないために、曲解や誤解が解消されぬまま自分視点のストーリーだけが生まれ進行していってしまう。劇場でそれを観ながらまさにこれだ、と思った。たぶん日々の生活に起こるほとんどの厄介事の理由はこれなんだ、と。

 なんでこんなことを長々と書いたかというと、退職まで残り1週間ほどとなった先週末に、トンデモ大どんでん返しが起きたのだ。また事態が落ち着いたら書いてみるかもしれないが、「まさしくみんな、ただ懸命にその役を生きているだけなんだよなぁ」と久方ぶりにしみじみと思ったのだった。

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