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シンプルでちっぽけな生命体としての自由

メイクアップしてドレスアップして、UP!UP!UP!の鎧をふんだんに備えて仕事して疲れ果て、さあここから、とばかりにメイクを洗い流し髪も体もまっさらにシャワーの水流にさらされて文字どおり素っ裸になる。丹念に水滴をタオルでぬぐって水着に着替える。一週間に一度、過剰な装飾から解放されて水の中に還る。とても素晴らしい。

自己紹介もしない。名前すら互いにわからない。おんなじような水着にゴーグルをつけているから、誰が誰かもわからないけれどそれで構わない。毎週おそらく同じ顔をそろえているはずのレッスン生同士でも、毎回他人と変わらない。そう、週に一度一切の虚飾や装飾を脱いで、肩書もなく名前すらなくし、互いの素性も深く理解しようと努力する必要もないなかで、わたしは正真正銘ただのシンプルでちっぽけな生命だ。しかしこのうえなく自由。

劣等生でいたっていい。誰にも評価されることはない。なにしろ知らない人間なのだから。思い立って始めた水泳教室で、想像以上に自分は頭優先でいることを知る。こうしなくてはいけない、という思いにとらわれて癖のない自由な動きがむずかしい。手の先、首の根、両足のすみずみにまで力と緊張が支配している。いったい何度注意されたろう?

「もっと力を抜いて!型にこだわらないで」と。型。そうなのだ、あらかじめ勝手に描く型ありき。そこに動きをはめようとしている。無意識にだ。水中で無力な身体が、無力なりに本能で知っている秘訣らしきものを、頭優先でいる限り得られない。こうしなくては、こうしよう、があまりにも邪魔をする。

背泳ぎのために背面で浮く練習をするのだが、自分はどうしても浮けなかった。それは、下肢にあまりにも力が入りすぎて、曲がってしまうからだった。まっすぐになって、という注意が耳にやっと入ってきたとき、『なるほど』と非常に合点がいった。指摘されるまで気づくこともなかったのだ、それほどに当たり前に力が無駄に全身を支配しているのだ。いわれたとおり、背を曲げず、下肢もまっすぐに完全に力をぬくとゆらりと浮上した。するとさっきまで誰と判別のつかないone of them のうちの一人にすぎなかった人が「浮いたね!」と声をかけてきたので面食らってしまった。

たぶん、すごい劣等生。なんでも自己流でやってきたんだろうと思う。体の動きを水中で指示されたように動かすことの難しさ。どうやってもちぐはぐになってしまう。あれを思い出した。手術で下肢が麻痺したとき、『術後3日で歩ける』という一般的な注意書きに縛られ、術後2日目でも痛みでベッドから降りられなかったとき、一般的な傾向から外れることに恐怖して泣いたこと。すごくダメな人間と烙印を押されるような気がして恐怖だった。体は、一人ひとりそれぞれなのに。水中で言われたとおりにできないとき、このときのような気持ちになって不良品みたいな不安が押し寄せる。

それでも水のなかは不思議に心地よい。ぼごぼごぼご、という自らの吐く呼吸音だけが聞こえ、体というか生命そのものを包み込むような心地の感覚のなか体を弛緩させながらかつ、手足の動きに心配る。息が苦しくなる。ほんのちらりとかすめる恐怖、ぷぁっと顔を水面から上げる。途端に音にあふれた世界。恋しくなってすぐ水面に顔を鎮める。

わたしは変わり者だから、無理に人に歩み寄って仲良くしなくていい場所があることも開放感に貢献していた。たいていの生活シーンで、自分はそれを率先してやってきたからだ。望むと望まざるとに関わらず、社会人なら当然のこととして。関係を無理につくらなくていいことの自由さ。なんて思われるのかなど互いに頓着しなくてよいことの自由さ。こんな世界は今探したって日常生活には存在しないのだから。

帰り道、水着から着替える女性たちは、髪にトリートメント剤をつけ、素肌に最低限の保湿など心みているが、自分はあらいざらしの髪と肌にマスクをかけ一目散にロッカールームを出る。せめてまだ、素っ裸の余韻を味わいたい。どうせ夜も夜、家に帰るのみの道のりをなるべく素のままで味わいたい。

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