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青山墓地を歩く

 昨日お盆最終日に駆け込みでお墓参りに行ってきた。いつの間にか自分以外、みんな東京を出てしまったので自動的に「墓守」になってしまい数年。両親は墓参を上京の理由にして遊びにくることを楽しみにしていたけれど、ここ数年は事態がそれを許さない。嫁いだ姉妹は当然ながらわざわざ墓参のために上京することもなく。ただ、私は墓参が好きであり、青山墓地なので仕事中に立ち寄れる気安さもあり、なんら問題はないのだった。

 青山墓地は自分にとっては幼い頃から「先祖代々の墓所」という認識しかなかったのだが、訪れてみると散歩したり日常の通路として利用している人たちが結構いる。昔は都内に住んでいなかったので、墓参に車で2時間程度をかける家族の小さなドライブであったが、自分は昔からこのドライブの道程が大変に好きであった。

 景色が竹藪ばかりの田舎道から次第に工場地帯となり、さらにはそれが高速道路を経て目まぐるしさの象徴のような高層ビル群となる。いつもこの変容を車窓から見守ることに胸が高鳴り、帰宅時、さらに夜のとばりがおりてさんざめく高層ビルの明かりがことのほか美しく思え、いつしか「私はここに住む」と幼心に誓ったものだった。とても不思議なことに、いつか東京に住むことは、非常に強い確信を子どもの頃から持っていた。

 青山には叔母が住んでいた。叔母は戦前にパリに留学し、帰国してから美容室を都心に数店舗構える資産家のモガであった。墓参の際は、必ず叔母の家に行き、彼女と共に墓地へ向かうのが常であり、自分は墓参とこの叔母との対面がセットであったことで、お墓参りがとても好きなのであった。彼女は子どもの目から見ても非常に洗練されており、生活様式も刺激的であった。たいていお墓参りを終えると、大人たちの会話からはじき出され、終日どこに行くこともできずおとなしく過ごすしかないのだが、それでも一日をこの叔母の家で過ごすことは自分にとって気に入りの時間なのだった。

 叔母は生涯を独身で通した。しかし仏壇に顔立ちの整った男性の写真が備えられており、誰知らずそれが彼女の想い人であったことは想像がついた。いくつかの店を一人切り盛りし、家には住み込みの家政婦がおり、結婚せずに都心で暮らす彼女の姿は私の憧れそのものだったし、姉妹のうちでも叔母は私を好んだ。それは単純にイエス・ノーをはっきり言う性質が彼女の好みに合っていただけだが。

 やがて大学に入学すると、親とは別に一人だけでよく叔母の家に遊びに行った。いつか彼女がパリに留学していた時代の写真を見せてくれたのだが、フォトグラファーが撮影したというそれらには、まったく見知らぬ女性がいきいきと息づいており単純に驚いた。今よりもすこぶる若く、美しい叔母の姿は女優のようであった。「私この写真が欲しいです」と興奮して言うと、「ふふ、じゃあいつか私が死ぬときにあなたにあげましょう」と叔母は言ったが、それは果たされることはなかった。

 彼女の家を訪問すると、私が喜ぶのでランチは外食することが常であり、彼女はそんなときいつも帽子を被った。彼女のなかでレディは外出時に帽子を被るという法則があったようで、四季に応じていつも素敵な装いのひとつだった。いつも私にも帽子を被らせようとしていたが、10代の少女にそれは非常に難易度の高いお洒落であり、いくつかもらったそれらもいつの間にか家で埃をかぶる始末なのだった。

 青山墓地は大変に広く、家族みんなの墓参から今ではたった一人となったため、最初は道に迷って我が家の墓にたどり着くのが至難の業であったが、あるとき彼女の言っていたことを思い出した。「桜並木の右側に警察隊の墓地があるからそれを通りすぎて云々…」というものだ。この「警察隊」というのが彼女だけの言い方で、本当は違うのだが、これによって一人で行っても迷うことはなくなった。

 この桜並木を歩く時は少しかなしい気分になる。よそいきを着て家族と歩いた道を、今はたった一人で歩く。家紋入りの桶と花を携え、というか今は仕事中に立ち寄るものだから大きな仕事鞄もセットだ。大木が多いので蝉の声もにぎやかであるが不思議な静寂に包まれる。8月のお盆時期ともなると顔から首筋から滂沱の汗が流れる。はぁふぅと息を切らせて歩く。いつかの記憶と共に並んで歩いているような、そんな錯覚を覚えながら。

 見上げると六本木の高層ビルがあり、日ごろの活動する世界と本当にごく近しい場所であることにふっと驚くことがある。それなのにやはり、墓所だけあってここはなんだか時空と切り離された特別な場所なのであった。

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