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社会的自己パラダイム

 「え、(出逢って)かなり初期から思っていたけど」。長いつきあいの知人に言われショックを受けた。何の話かは追い追い種明かしをするとして。

 私は「できること」と「できないこと」の差がかなり激しいタイプだ。そして「できないこと」がひとたびできないとなった場合のレベルも激しい。そのうえ、結構この「できないこと」が多いのだが社会生活をなんとか人並に送れている風を装うことができている。理由は、「できること」にしか焦点が当たらないほどに、ごく一部の「できること」が突出しているからなのだ。突出している、と自己評価できるまでに長年かけてはいるが、これは自慢でもなんでもなく実際そうだとしか判断できない。なぜなら、そうでないとこの、数多い「できないこと」が人目につかずカムフラージュされるわけがないのだから。

 「できないこと」を挙げれば枚挙にいとまがないほどなのだが、方向音痴、空間認識能力の欠如は親しい人からも自分でも病的という認識に至る。高校時代の物理などの移動教室へ一人で行けたことがない。店に入って出たら右と左のどちらから来たかわからない。長年同じエリアに住んでいて、管轄の投票所(近隣の小学校)に行くのに徒歩で2時間かかってしまう。本当は15分かからない距離だそうだ。現在は「道に迷って投票所に行けない」という理由で、必ず期日前投票を選んで駅のそばで済ませている。

 大学に入学すると、一人暮らしの自宅から大学のある駅までの距離、自転車で10分弱だが、1時間かかる。そしてまたどうしてもたどり着けない。それで毎日中間地点にあった交番に立ち寄ってお巡りさんに道を聞く。お巡りさんは毎日来る私に「また!?」という挨拶から「今日もきたね!」に変わっていった。きっちり一ヶ月これが続いた。これらは方向音痴の領域のエピソードだが、他に「病的に数字に弱い」もなかなか。何しろ、学生時代のバイトで私がレジ締めをすると必ず合わない。大人になってからも計算機で同じ計算をして答えが毎回変わってしまう。確定申告も嫌すぎて、税金を高く払うこともいとわず最低限の手間の申告で済ませてきた。フリーランス仲間からは「狂気の沙汰」と呼ばれている。

 「本当によくこれまで無事に生きてきたね」とは冒頭の人だけでなく、親しい人によく言われる。それも、芯から憐れむまなざしと共に。自分でもそう思うし、そのたびに「うん。やさしい人たちに助けてもらってなんとか生かしてもらっています」と答えている。でも本当のことを言うと、何度もかなり危ない目にも合っているのだが、しゃれにならず心配されるのがわかっているので黙っている。

 しかし、こうしたごく親しい人をのぞくと私のパブリックイメージは「なんでもバリバリできる人」なのだ。あまりにそう言われるので、「らしい」とあえて謙遜するのはむしろ気持ちわるさがあるので言い切ってしまうのだが。こういう目くらましがなぜ起きるか?というと、キャリアのかなり早い段階から事務仕事やエクセル等の書類仕事を自分でやらなくてよい働き方だった。これらがもっとも苦手であるので、それに触れなければ人にダメさが伝わることが少ないのだ。一方で得意な交渉とか商談とかのネゴシエーション系やメディア回りのコミュニケーション戦略において図抜けて成果を出していたことで皆さん完全に騙されてしまう。

 後者が華のあるスキルであるため、また、弁舌なめらかであることが有意に働く仕事であることで「なんでもできそう」というイメージになってしまうのだろうと思う。実際、なんでもできるんですと言わんばかりの仕事内容にタッチしている。

 つまり、こうしたごくごく一部の「できること」が強い光を発して濃い影である「できないこと」がどんどん見えにくくなっていくわけだ。同時に、自分は仕事上の服装は完全にコスプレ感覚であり、着たい服ではなく「今のこの年齢でこれくらいの仕事をする人間としてどう見えていると有意か」の観点で身に着けている。武装だ。あまりにも本当の自分はできないことの多い心もとない人間であるので、ファッションで武装することで勇気を得ているのかもしれない。さあ、冒頭に戻ろう。

 昨日、その知人と待ち合わせをしていた。私は待ち合わせ場所にたどり着くという行為に大きな不安があるため、あらかじめ細かく決めておきたいタイプ。対して相手は臨機応変に、そのタイミングで設定するタイプ。最初にしつこく確認して、「ではここにいるから」と告げたにも関わらず、「やっぱり●●まで来て」と言う。5分も歩けば着くのだからこの程度の変更は子供でもできる、と思っているのだろう。しかしこの人は、17年もつきあいがあってどうして他の人のように「それができない人間」としての私の取り扱いをしてくれないのか…。予想どおり、「ごめんなさい。たどり着けないかも」と、充分に迷った挙句連絡をして、その後たぶん30分ほどかけて落ち合うに至った。

 過去何度もこうしたことから機嫌を悪くするのを見てきたので、大層私は落ち込みおびえながら「怒ってるよね…」と確かめると、「や、怒ってないよ。もう慣れたから」と答える。しかしねちねちとここで振り返りをされるのだ、どうやって来たのか、どこで間違えるのか、なんでそうなるのか、と。こちらとしたらそんなことを冷静に分析できるものなら、最初から間違えないとしか言えない。そう告げると意外な答えが返ってくる。

「うん、だからきみに任せるのはとっくにあきらめていて、自分の後学のために振り返りが必要なわけ。どこであなたが迷子になるのか、という視点を知りたい」と。

「私ってさぁ、たぶん発達障害なのかもしれないなって」とおずおずと告げる。

「え、そうでしょ」と、コーヒーなどカップから口に運び無関心に答える。

「え?……なに、ずっとそう思ってたってこと?」反対に衝撃で立ち上がらんばかりの自分。

「うん」。

 自認していても他人がずっと長年そう思っていた、と感想を述べられてショックが激しい。

「…いつから?」

「え?だから、かなり初期」。。。

 目で見てわかるほどに落ち込んだ。あまりに落ち込む姿を不憫に思ったらしい知人が、「なんで?そんな人いくらだっているでしょ?自分のまわりには(美大卒)そんな人しかいないくらいだよ」と、おそらくフォローでもなんでもなく素直な感想として言うのだが、こちとら長年必死にダメな部分が目立たぬようパブリックイメージを構築してきた人間として、落ち込んだ。この人にはさすがにつきあいが長いことなどもあり、ダメエピソードも開示してきたし実際に直面する機会も多かったと思うが、なんというかショック。

 これ、実はここまで書いて時間切れで下書き保存していたのだが2日経って改めて読んでみたけれど、いまだに軽くショックを引きずっている…笑

供養のつもりで勢いでアップしてしまおうと思う。

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