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Ambivalent.

 変なことを唐突に言うようだが、私はとても性格に難があると思う。そして、ここ最近じっくりと(暇か)その理由や過程を振り返ってみようと思い、どうやらこれが正解であろうというところまで行きついた。思考整理のnoteだからこそ、書き記しておこうと思う。

 おそらく私は、自覚的に性格に難を持つことに決めたのだ。どこの段階かは不明瞭であるが、とにかくも社会に出てからあえてそうしたことが思い出された。社会に出て、当然最初は誰でも学生から社会人への移行で洗礼を受けると思うが、私においてはことごとくがダメを喰らったと思う。生きることに否を徹底してもらい続ける生活のなかで、最初の1~2年は単純に自我が崩壊していくのをおろおろと眺めているに過ぎないが、だんだんと社会の洗礼は「バージョン3」「バージョン4」のように複雑になっていく。その度に身に着けたやり方が通用しなくなる連続で、時折忘れられないほど意地悪な人に遭遇してきたと思う。

 そうして、その意地悪な人に直面した衝撃は「こういうふうにするのか」と、自分にとって自衛術としてインプットされたのだと思う。この辺り、今振り返っているので当時は当然そういった認識はなく、ただひたすらの衝撃でしかなかったのだが。

 自分にとってその衝撃は、「人になんて思われても構わないのだろうな」という、保身しかできなかった自分にとっての信じられないアプローチ手段という斬新さだ。また、業界的にあまりにもそういう女性が多かったことから、単純に傷つきまくってきた自分は、そのアプローチ方法が正しいやり方なのだ、と思うようになった。そしてそれは、意地悪ではないのだ。ビジネスのスキルなのだ、と認識するに至ったと思う。

 さらに歳月が流れると、私はとてもうまく本来の自己を社会的自己にすり替えることに成功していったので、もはやその境界は曖昧になり同一化しているようにも思える。また、この辺りをよくよく見つめてみると、男性の起業家にはこういう人がとても多い。そういうわけで自分は男性の起業家とはとてもウマが合った。

 つい数日前のこと、ある大手企業に勤務する非常に頭脳明晰な方らと食事をしていたときに、ビシ!!と突かれた指摘に、内心の私のハートが粉々に砕かれる思いを受けた出来事がある。たとえばそれは、「フェアである」ということついて。ある分野では少数派の団体と、自分などの営利団体側が何かしらのプロジェクトを共にする場合に、例として「本来の仕事の進め方で言えばこうするはず。でもそれを彼らの慣習に言いなりになって話を進めるのはむしろフェアに扱っていない気がする」という私の考えがあったとする。要するに判断の基準は、通常だったらAにしよう!と言えるものを相手方の差別感情に譲歩して言いなりになることが、果たしてビジネスの相手として公平に扱っているのか?というのが私の考えだ。

 それについて上記の方が言った。「それがおかしいんですよ。フェアという判断は誰のものなんですか?今わかることではないんですよ。ゆらゆらと揺れながら互いの論理の間をさまよってさまよって、その結果出てくる解がフェアなんです」と。

 私がこの言葉にショックを受けたのは、おそらく本当の自分はそう思う人間であったろうとわかったからだ。長い長い歳月と共に、スマートで最適解を出すことに長けるようになって、要するに「スマートな最適解」をビジネスの現場で求めてきたし、出してきたんだと思い出された。そしてその過程で起きる自分含めて相対する人の傷つきを、成果の代償としての正しい傷みとして取り扱ってきたのだと思った。

 このことは結構自分にとってはショックが大きく、時折自分はビジネスの現場で非常に冷酷な(態度ではなく)結論を出すのだが、それによって生まれる軋轢や、軋轢がもたらす人と自分の痛みというものを仕事をするうえでごく当たり前のこととしてきた事実に思いを馳せることになった。だって、それまでそうしてきたことが、ビジネスとして正しかったこともあったかもしれないが、「本当に正しかったのか?」と言われたら答えられない。

 たぶん、自分的な考えやアプローチをこれからも否定はしないし、結果としてそれらが必要で機能してきた歴史なのだとも思う。自分は人に理由あって嫌われることは仕方ないと考え、受け入れるのだが、そうした合理的な最適解を出すことで嫌われてくることも当たり前のこととして生きてきた。
こわいのが、「そういう人間ではなかった人間が、仕事をする人生で別の人格をつくってもはや区別がつかなくなっている」という事実だろう。

 と、ここまで書いて自分のめんどくさいもう一つのパートが思い出された。ほぼ1年前に書いた記事「Miss Sloane」への羨望」に記しているとおり、自分の理想はビジネス上で必要な結果を出すためであれば喜んでその過程に自己を犠牲にできるという資質なのだった。Miss Sloneのように、信念に基づき極を選んだら二度とぶれない、というほどの強さも真剣さもない自分について「なんて微妙なんだ…」と思う日曜の夜なのだった。

 (この余禄は本来記したくないのだが、劇中のMiss Sloneも結局は睡眠障害で薬に頼り、身分を明かさない間柄のsex partnerを持つことでバランスをかろうじて保っていたのも事実。結局は、、、、、という結論部分を今日はまだ出したくない自分である)


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