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世紀の大発見

 突然、このJR東日本のCMを観たくなって見つけてきた。

 そして思った。

 なぜ過去にときめいたものに心はピン留めされてしまうのか。まるで過去にしか心震える出来事がないかのようで歓迎できない現象だ。

 そうしてこのCMを契機に学生時代にカラオケ用に聞きまくったglobeをApple musicで見つけてきて7キロほどのウォーキング中にイヤホンから聴くともなく聴いた。それでわかったことがある。この発見は非常に胸が躍った。

 聴いていた当時を思い出してウンチャラ、ということではなく、私が関心を持ったのはこれらの曲をつくって当時一大ムーブメントを興したK氏のことだ。どの曲も、そしてプロデュースする女性歌手のどの曲にも、その歌い手と自身の関係性をなんとなく込めた歌詞を提供している。そう考えると当時の彼の心境を歌い手を通して日記のごとく感じることができるようで興味深いと思った。今、ひとつの歴史が終わり彼の音楽家としての物語を我々は周知の事実として共有しているわけだが、改めてそれらを客観的に振り返るとき、「なぜ年を取った彼は、あの頃のようなきらめく音を曲をつくれないのだろうか?」という問いが浮かぶ。それを私は以前から、老いのせいと思い込んでいた。あるいは、感性のピークというものが厳然としてあるがために、特に創作活動においてはピークのきらめきは二度と手に戻らないからだ、と。

 しかしふとまた新たな問いが起きる。

 では、人間国宝と呼ばれる方々の芸道においてはどうだ?歌舞伎でもお能でも、焼き物でも美術でも書でも。ひとつの道を究めそこに殉じるように生きる人たちにピークはないではないか。その年齢ときどきでしか表現できない美はあるけれど、大体において彼らが『今がベストです』などと言わない。二度とまぶたを開くことのないその日がくるまで、技を磨き続けるがゆえにピークもベストもないのだ。そこに円熟みであるとか枯れであるとか、わびさびであるとか、奥行きをもたらしこそすれ、年齢は決して感性の枯渇を連れてこない。

 はっとした。そうか。

 感性は枯れることはないが、老いるのだ。そしてピークのない人たち、つまり常に旬である人たちは感性がいつもピンピンと柔軟なのだ。

 人は年を経るごとに経験が増えていく。経験が増えるとそのときどう対処すべきかもわかるし、どんな感情の嵐が起きるかも、もうすでに知っている。若い頃って単純にこの経験がないから、一個一個の体験で右往左往して全身是神経かのごとく、文字どおり神経の一本一本が体験を自由に味わうことができるのだ。無論それはポジティブなことのみならず、苦みも怒りも。

 要するに感性を老いさせないということは、経験に慣れていってはならないということか。『あの頃はよかった』と、感性が鋭敏でただ感じ取ることができたという記憶の世界に逃避するのではなく、人間国宝のように絶えず『今が旬』でいることを求めたい。そしてそれはできるはずなのだ。

 これはおそらく、過去に生きること(終わったことをいつまでも思い出して反芻すること)や未来にさまようこと(起きてもいないことに思い巡らせていること)を止めて、本当に今このときを瞬間瞬間で生きることがカギなのだと思う。しかしこれは非常に難しく、自分などは何度練習して生きてみても難しい。特に仕事なぞは、この経験値が経験知でもあって熟練していくわけだし。

 この発見は非常に有意義だ。心がもっていかれる事象をよく観察してみたとき、「過去心奪われたから」という理由であったらNGだ。感性は老いているうえにその事象をすら新鮮な目で見ているのではなく、過去陶酔した記憶に甘く酔っているに過ぎないのだから。

 感性を若く保つのではない。重要なのは感性を老いさせないことだ。本来無尽蔵であるはずの感性を弱らせ鈍くさせるのは自分自身なのだ。新たなことに心を体を開いていき、常に濁った眼で見ないよう己を監視したい。どうしてか?

 それは、死ぬまで人生に夢中でいたいからだ。

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